知多半島のちょうど中央部、愛知県常滑市山北地区の高台に常滑(とこなめ)城がありました。今から、約500年前に築城され、400年前の天正八年(1590年)に廃城となったお城跡です.。今から、200年前の宝暦年間(1751年〜1780年)に書かた尾張藩の史書「尾州府誌」に次のような記述があります。
『在常滑村其城東西七五間南北十一間有二壕水野監物直盛居之俗称常滑殿今為田圃』
廃城から、200年経過した時点ですでに、(田圃)化が進み、遺構を確認するのが困難となっていました。
旧町名、「堀西」「堀中」「堀東」や、街中を歩くと突然10b超す垂直な崖があらわれ、常滑城の輪郭が見えてきます
常滑村古城之図  常滑城跡の碑 「上の山」台地 
この「上の山」の台地に常滑城がありました。遺構は何も残っていません 
初代常滑城主は、水野忠綱で、緒川水野本家 水野忠政(水野家の中興の祖 徳川家康の外祖父)の弟にあたります。時は戦国の世、応仁の乱以後、知多一円を支配していた一色氏が衰退し、大野湊の佐治氏と師崎の戸田氏が争う中、緒川の水野氏が常滑に進出してきたわけです。文明十年(1479年頃)二代水野山城守 三代水野監物守隆と三代続きますが、本能寺の変後、水野監物は明智方に与した為、常滑城を追われ廃城とります。信長の武将として、浅井朝倉攻め、伊勢長島の戦い、石山本願寺攻め、甲斐攻め に参戦した歴戦の織田信長の武将が本能寺の変後、明智光秀方に与した事が、ちょっと不思議に感じます。天正七年京都で、監物の亭主で茶会を催すなど、津田宗及、千の利休、著名な連歌師 里村紹巴等々との交流が深かった事が記録に残っているようです。監物に限らず、二代水野山城守は足利幕府の要職につき京都在住期間が結構多かったようです。天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に里邑紹巴が参加したことは事実であり、本能寺の変後に里邑は豊臣秀吉に疑われるも難を逃れた。水野監物は里紹等を介し光秀と懇意になったものと推察できます。「ときは今天が下しる五月哉」の心境も水野監物に打ち明けていたのではなかろうか !!この時、水野監物は、京都に居たのか、常滑城に居たのか!!刈谷城主に復帰していた水野忠重は京都東福寺塔頭の霊源院に難を逃れていたようです。最も一般的に考えられているのが、水野監物は、里邑紹巴、津田宗及、千の利休等と交流を深めていたことから、本人が京都にいたとすれば、あまりにも、明智方の身近に身を置き過ぎた為、与せざるを得なかったと。「當代記」の天正一二年(1582年)本能寺の変の記事に
『此日未刻計、此の事聞安土、・・・・(中略)又尾張国の水野監物即従明智、翌日明智安土殿上に上りし時も、伴いける。時の人非人として悪之。明智果て後、牢人也』とある本能寺の変の二ヶ月前に、京に滞在してい事が、「津田宗及茶湯日記」に記録されています。常識的に考えて此の時、監物は京都にいた!!しかし、水野監物は常滑城に戻って居たと考えてみることも面白い。充分考えられる事であります。武将として与するとは、いかに、どれだけの兵力を動員できるかに力量が求められる。武将として、速やかに常滑城に戻り家臣団を取りまとめなくてはならない。山崎の合戦には、確か、水野監物は参加していないはず。家康の伊賀越え程、帰路は苦労なくて常滑に海路たどり着いたと考えられる。このあたりの歴史的資料を目にした事がないが!!従って、これは全くの憶測ですが!!水野監物は、本能寺の変の天正一〇年(1582年)の直後、実は、常滑城に戻って居て、明智方の誘いに大いに悩み、家臣団を含め、充分に討論重ね、結果明智方に与する事に決心したのではなかろうか!!理由として色々憶測されているようです。むしろ、水野監物は常滑城に戻って居たと考えてみることも面白い。充分考えられる事であります。
 
      常滑水野家菩提寺 天澤院       愛知県常滑市山方町5−106
 天澤院(てんたくいん)本堂 文明五年(1473年)初代水野忠綱により創建 
 三代当主水野監物の墓は、ここには有りません。監物は、京都で千利休、津田宗及などとも茶の湯を楽しみ、里邑紹巴らと連歌を楽しみ、風流三昧な生活を送って、慶長三年(1598年)に奇しくも、秀吉と同じ年に亡くなっています。遺骨は常滑焼の壷に収められ、臨済宗天竜寺派大本山、天竜寺塔頭、永明院(ようめいいん)に祀られているそうです。
                                                    京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町
 参考資料 「常滑史話索隠」 瀧田英二著   「常滑の史跡を守る会」 常滑城案内パンフレット
 「常滑水野家は、再興なりました」は、こちらから