徳川家康は、本能寺の変(天正10年6月 1582年)で、織田信長の急死を知り、急ぎ、本国の岡崎へ帰った事があります。泉州堺で変事を知り、伊賀越えで、伊勢白子浜に出て、そこから、柴舟で海路三河に帰る訳ですが、現在、三通りのコースが考えられています。 
@ 柴舟で、直接、三河大浜に向かった。半島の先端を廻り、三河大浜に海路直行した。
家康の伊賀越えの後、知多半島に上陸。上陸地点には2つのルートが伝承されています。
A 現在の常滑市市場の浜辺(正住院裏)に上陸したとする説。
陸路、成岩の常楽寺を経由して、知多半島を横断し対岸の三河大浜に渡ったトする見解。
B 現在の常滑市大野町の浜辺に上陸し、東龍寺に逗留し、陸路大野街道を経て成岩浜より、海路三河大浜に渡ったとする見解。
当時、常滑は陶器常滑焼の生産が盛んになって来たため、燃料iの薪が大量に必要となっていて、伊勢方面より大量の薪を取り寄せていたようです。此の薪や製品の陶器を運搬に使用された船を、柴舟と呼んでたようです。白子衆の柴舟操船技術は、当時の最先端であったと考えられ、半島の先端を回り込む操船術は充分あったと考えられ、一番安全に速く目的地に到着出来るのは@の海路で三河大浜に直行する方法であると考えられます。しかし、現在では、各所各寺社の伝承を考えるとA、又は、Bのコースのいずれかであるとされている。今回は、Aの常滑に上陸したとして、常滑コースをたどってみました。此の場合、常滑城主 水野監物守隆は明智光秀方として、京都に居たことになるが。
 
 正住院:常滑市保示町1−57
正住院駐車場 大正末期まで、此の石垣が旧海岸線でした。正住院は海岸に背を向け、海側にも入り口があります。一説には,家康は常滑のこの寺の裏の海に上陸したのではないかと言われています。家康一行を出迎え、案内したのが、常滑の庄屋 八兵衛で、陸路、半田の常楽寺まで案内したそうです。その功に対し、家康より槍、1本、後に常滑城の在った高台 「上ノ山」を授かったそうです。庄屋八兵衛は後に、名主 衣川八太夫と改名し、市場地内に柴舟で上陸した権現様(家康)を祀る柴船権現をたてます。 
   
三間一戸の重層門 常滑で一番高い山門です。狭い小路を抜けると突然、この大きな山門が目の前に現れます。圧巻です。
   
常滑市の市場地区、保示地区には旧海岸線に沿って常夜燈が複数あります。 
 
柴舟権現
 
満覺寺
この西方 海側100b程の道路に面した所に柴舟権現があります 
伊勢の白子より、柴を積む船に隠れて常滑に逃れてきた権現様(家康)を祀るようになった柴舟権現祭が、毎年5月の中旬に、いまでも盛大に行われています。 
 
昭和六十二年に再建された常楽寺山門
知多地方初の念仏宗の寺院である常楽寺は徳川家康との縁でもよく知られ、常楽寺 第八世典空顕朗上人が家康と従兄弟の間柄であり、永禄三年(1560)年桶狭間の戦い、天正十年(1582)年本能寺の変の際、当山に逗留し、さらに家康は天正十七年(1589)年、国許より上洛の途次来山しています。家康の係わる拝領品が数多く残っているそうです。歴代尾張藩主の参詣も多く、お手植松や、かずかずの拝領品がかず多く残されているそうです 
   
増長天と広目天の二天王が新たに奉安せられました。 
   
常楽寺本堂 天龍山常楽寺は文明16(1484)年、栄覚上人によって開創されました。西山浄土宗で尾張藩主の信仰が厚く、多くの伽羅が立ち並び、繁栄を極めましたが、大正13年に火事に遭い、多くの貴重な建物が失われてしまいました。しかし、その際、焼け残ったものも多くあり、地域の仏教信仰を現代に伝えています。『知多郡内の本宗宣流の源にして「知多一郡之本寺也」(尾張藩祖由緒文)』と云われているようです。昭和一五年、本堂、庫裏、玄関、書院等を再建されrました。昭和木造建築の模範的建造物だそうです
 
徳川家に縁の深いお寺様。各所に葵の御紋がいっぱいです。 
常滑から成岩 常楽寺までは、当時、既に半田市板山地区を経由し、半島を横断する最短コースが確保されていたようです。距離にしておよそ三里程、急ぎ足で半日コース。常楽寺は当日には到着。ここから、対岸の三河は、当時でも、一海里弱。一安心出来たでしょう。 現在は、対岸三河まで、海底トンネルが通っています。                        
  常楽寺: 半田市東郷町2−41
  常楽寺 参詣のしおり等 参照