所在地   愛知県常滑市金山字城山  主な城主  一色氏・土岐市・佐治氏
 城郭構造  平山城  築城年代  不明
築城主   不明(一色氏?)  遺 構   曲輪・空堀・(模擬天守)
 知多市と常滑市の境を流れる矢田川を渡ってすぐ南側の小高い丘の上に天主がみえます。別名宮山城とも言われていあます。 以前、物見櫓があったところに、四代にわたって城主として、大野湊一帯を支配していた佐治一族を祀る佐治神社と二層の模擬天守(展望台)が建っています。 一帯は城山公園となっています。麓の無料駐車場を利用し、山頂を目指登りました。山頂周辺は、宅地造成が進み、ほとんどが住宅地になっており、かっては、二重、三重の空堀を廻らし、土塁、曲輪を配したであろう面影は、北側斜面中心にそれらしき形跡が僅かにみられます。 大野城とよばれるお城は、全国に沢山あるようで、愛知県内にも大野城は三箇所あったそうです。他の2箇所は、早い時期に廃城となり、現在は、石碑が立つのみのようです。
今回も、北の駐車場横の階段から山頂目指して登りました。 今年は、満開の桜を楽しみに登りました。
途中の多目的広場の桜が満開に咲いていました。300階段程登ると漸く、本丸への門と石垣が見えてきました。 
本丸跡にようやく到着。桜が満開でした。大河ドラマ「お江」で町中が燃えていた時には、大変な人出でしたが、本日の登城者は私の外、2〜3組でした。4〜5年の経過で 、こんな状況になってしまうとは。実に寂しく感じました。
本日は、快晴でしたが、春霞にかすみ、対岸の四日市、鈴鹿の山並は、見ることは出来ませんでしたが、眼下に伊勢湾が一望出来ました。セントレア空港を離発着する飛行機や、海上を行きかう大型船がはっきりと見る事が出来ました。 
この鳥居は、京都伏見の桃山御陵(明治天皇陵墓)を遥拝する為に、建てられました。 
佐治神社の右端に最後の大野城主 佐治与九郎が座っています。模擬天守閣内部は、資料館になっていて、大野湊、佐治家にまつわる資料が、多数展示されています。左から二枚目が、母於犬の方(信長の妹)の菩提寺、京都竜安寺の塔頭 霊光院に祀られている佐治与九郎一成、三人目の妻 お振の方(信長の末妹)、与九郎の弟 中川秀休の墓の写真です。
東京大学史学編纂所所蔵の佐治一成の像は初めて目にします。    
 大野佐治氏の歴史
室町時代の終りから戦国時代にかけ、ここ大野城を居城とし、四代100年にわたり、知多半島の西部の大半を支配下に置き、伊勢湾の海運交通を掌握する佐治水軍を率いていたようです。この海運力に関心をもつ戦国の覇者 織田信長との繋がりが強く、とりわけ三代目佐治信方は永禄初年頃に、信長の妹 於犬の方を室に迎えていることから織田一門格で活躍していたようです。佐治信方は一成がまだ幼少であった元亀二年(1571年)に,、伊勢長島城攻めにおいて戦死したとされています。(天正二年という説もあります。)若くして四代目を継ぐことになった 佐治一成は、後に、信長の妹 お市の方と浅井長政の三女小督の方(お江の方)を妻として迎えています。一般には、秀吉が、自分の養女(お江このとき12歳)として天正十一年、佐治一成(この時16歳)に嫁がせたと云う説が定着しています。諸説有るようですが!!佐治一成は、小牧長久手の戦いに豊臣秀吉に敵対し、小督の方(お江の方)と離縁させられ、領地没収の上、伊勢へ追放されたようです。天正一二年(1584年)。新しく、織田長益(有楽斎)が入城するが、より水利の便の良い大草城を築城、大野城は、廃城になりました。
 
佐治家の菩提寺・曹洞宗・萬松山薺年寺にいってきました。                常滑市大野町9−139
薺年寺総門 天正十六年移転当時のもの。木造瓦葺平屋建 三間一戸薬医
薺年寺山門 一間一戸楼門 入母屋造り本瓦葺 天正十六年移転当時のもの。

齊年寺本堂
寺宝国宝 雪舟筆 「達磨大師二祖慧可断臂図」(だるまたいしにそえかだんぴず) 京都国立博物館に移管。初代大野城城主佐治宗貞の三回忌を祈り二代為貞より供養品として寄進されたそうです。 
 洞宗・萬松山薺年寺。佐治家・菩提寺で佐治家四代の位牌所
沿革: 大野二代目城主 佐治為貞が亡き父宗貞の菩提のため、享禄四年(1531年)三月、青海山(現常滑市青海町)山頂の城内に、建立。佐治家代々の位牌所とした。天正一五年(1587年){天正十二年説もあり}落城とともに、廃寺となる。翌、天正一六年(1588年)、佐治家の重臣の栗津九郎兵衛により、現在地に再建。本堂は、昭和二十年東海地方を襲った大地震で倒壊。昭和四十年鉄筋コンクリート二階建本堂再建。