尾張大野の寺宝展
 所在地:常滑市大野町6−87
尾張大野歴史資料館で、大野寺宝展が開かれているを知り、久しぶりに尾張大野歴史資料館に行ってきました。10月1日 (土)〜2日(日)常滑市大野町内の蓮台寺、東龍寺、齊年寺、その他 徳川秀忠の書簡等、いずれも大河ドラマ「お江」に所縁りのあるお寺様の寺宝や、個人所有の貴重な文献等が多数出展されていました。
文献、案内書等では、それらが所蔵されている事は聞いていましたが、実際に今回初めて観ることが出来ました。

東龍寺

信長の禁制(写)

耆婆大臣像

徳川秀忠像

若き家康公の像
東龍寺 浄土宗 常滑市大野町6−61               
応永31年(1424年)東岩恵全和尚が再興。浄土宗に改宗、桶狭間の戦いの際、さらには本能寺の変の折りに、岡崎へ逃げ帰る途中の徳川家康を助けたと云う寺伝があり、常滑市指定文化財「古過去帳」をはじめ、多数の寺宝が保存されています。
東龍寺寺宝
今回、数多くの寺宝の内、@ 織田信長発給の禁制(写) A  絹本着色伝 徳川家康像 B 耆婆大臣像 が出展されていました。
A  絹本着色伝 東照神君御影:家康の生母伝通院(於大の方)拝領物。若き日の家康公の画像は数が少なく、大変貴重な絵画(絹本着色)であると言われています。
B 耆婆大臣像:江戸初期の徳川家康公の拝領物。耆婆大臣とは、古代インドで、仏教に深く帰依し、名医・医王として人々に深く尊敬あつめたジーヴァカ(漢訳:耆婆)なる人物と思はれます。

蓮台寺

開かずの門

小喚鐘

有楽斎寄贈の太鼓
蓮台寺 時宗  常滑市小倉町5−66   
正和三年(1314)一色道秀の創建。花園天皇の勅願所で、かっては一山十七坊の巨刹でした
境内には、古墳・寿山塚があり、初代大野城主佐治宗貞の墓が有ります。佐治家に纏わる多くの逸話が残っています。
蓮台寺寺宝
今回出展寺宝  @ 織田有楽斎寄進の太鼓 A 小喚鐘 B 鴛香爐 
A 小喚鐘:大永七年(1527)初代大野城主佐治宗貞が寄進したもの。常滑市指定文化財
B 鴛香爐:万治二年亥年三月(1658年3月) 瑞龍院様寄付とあり、展示案内書には、豊臣秀吉の姉で、豊臣秀次、秀勝の母、瑞龍院の寄付とあるが、瑞龍院とは、尾張二代藩主 徳川光友公(瑞龍院殿)ではなかろうかと云う声も聞こえて来ました。年代的にも、徳川光友公のように思えます。

鴛香爐
蓮台寺寺宝  個人所蔵の徳川秀忠が、弟松平忠吉宛の書    
     
齊年寺山門   齊年寺総門前案内版  国宝:達磨大師像
齊年寺  永平寺派 曹洞宗 常滑市大野町6−61
齊年寺は佐治家菩提寺で、佐治氏四代の位牌所となっています。
国宝、雪舟作「達磨大師二祖慧可断臂図」や常滑市指定文化財「青磁香炉」など多くの寺宝があリます。展示品は写しで、実物は京都の博物館に保管されているそうです。
織田信長発給の禁制について
大野町史によれば、「常滑村の住人、戸田孫七郎は信長の近習の侍であったが、大野村東龍寺の壇越でもあった。其の縁故を以って、信長が永禄三年五月、今川義元を討って大勝した後、東龍寺寄附料のことを言上したので、その年の十二月に村の内、四十貫を永代寺納させる御判と五ヶ條の制札を相添へ御下賜になった。」 と。 この戸田孫七郎は、本能寺の変で討ち死にしてるようです。禁制(きんぜい)は、戦国の世、近郷の大名、豪族の軍兵等による狼藉・略奪・放火といった行為から神社・仏閣・村落・市場・等を保護するのが目的で、権力者より下し置かれる通達書、安全を保障する「お墨付き」として機能していたようです。
桶狭間の合戦勝利直後、、この禁制が、永禄三年(1560年)十二月に発給されている事に大変興味を覚えます。信長が速やかに、知多半島の実行支配をもくろんだ証の一つであるとも考えられます。東龍寺にとっては、戦国の覇者 信長の禁制を手にした事は、大変な大きな安全を担保出来たと考えられます。永禄年間の信長の禁制が、保存されて残っているとは驚きです。
織田有楽斎寄進の太鼓について
「天正三年三月織田有楽寄付」と刻付。
大野城主三代目佐治信方が、長島一向一揆(天正二年)で討ち死に後、四代目佐治与九郎一成が幼少の為、信長の命によって、弟織田有楽斎は、ただちに大野城に入城したという説の根拠とされています
 徳川秀忠が、弟松平忠吉宛の書
 
福松は後に清州城主となる松平忠吉で、家康の第四子です。福松が幼少の頃、腫物が出来て困っていたが、かねてから有名な潮湯治場であったた大野海岸へ、治療に訪れていました。兄秀忠から心配のあまり見舞いの書状を送ったものです。大野海水浴場が世界最古のものである証拠の一つになっています。』