知多四国七拾番札所 地蔵寺に隣接する大草公園が、実は、大きな城郭の址でした。
「井戸から上がった地蔵様」で有名な地蔵寺 です。
本丸址は、現在、この模擬天守の展望台とグランドがあり、地元知多市の大規模災害時の一時避難場所として指定さています。  
本丸、二の丸に水濠と土塁、空堀、櫓台址も良好に残っています。  
  
大草城縄張り図 
 梯郭式縄張りをもつ本格的城郭を目指していた意図が伺えます。実は、大草城は未完のお城です。築城者は、織田信長の実弟で、茶人として有名な織田長益(有楽斎) 「おだ うらくさい」でした。築城のきっかけは、信長の子 織田信雄に仕え、知多郡に所領を与えられ、天正九年(1581年)織田信長の命により大野荘 大草村を拠点に、伊勢湾の海運の実権を掌握する為、築城するよう指示が出た為と言われています。しかし、天正十年(1582年)本能寺の変で計画が頓挫、完成目前にして、天正十一年(1586年)工事が中断してしまいます。その後豊臣秀吉の命により、小牧長久手の戦いの後、摂津国嶋下郡味舌(現大阪府摂津市)に移封され、大草城は、未完のまま廃城となりました。廃城が420年経っても、この規模で良好に残っていることが驚きです。尾張藩は大草城跡を尾張知多郡の防御上重要な地として、家老の山澄淡路守英龍に大草の地を与え(五千石)城址近くに居を構えて城址の保全をさせ、歴代の山澄氏によって保存されていたようです。                                  



参考資料 「大草城跡」 知多市文化財資料第40集(知多市教育委員会)