常滑水野家は、お家再興成りました 
 豊臣秀吉が亡くなる同じ年、慶長三年(1598年)に水野監物は亡くなっています。本能寺の変後、実に、15年間京都で連歌に、茶の湯に、風流三昧な生き方をしてきたようです。数多くの茶会に、「水監入」の名前で出席している形跡が見うけられます。「水監」=水野監物 「入」=入道(僧侶)姿で京の文人社交界に出没していたようです。この段階で水野家は断絶しますが、ここから、監物の正室 於万の方が水野家の再興に大変な頑張りをみせます。於万の方は、夫、監物が亡くなると、出家し総心尼となり尾張の熱田に転居します。「常滑殿」「とこなめさまと呼ばれていたようです。水野信元の娘であったことから徳川家康とは従兄弟となり、二十人扶持の手当が支給されていました。初代尾張藩主徳川義直に総心寺の開創を度々願い出ていて、とうとう聞き入れられました.
総心寺山門  総心寺本堂  総心尼の五輪塔 
 元和二年(1616)に開創されたと伝えられ曹洞宗・萬年山 總心寺本堂。参道の右側の階段を少し登った所に、水野家の複数の墓があります。 総心尼の縁者の水野家の方々も一角にまとめて祀られています。後列の中央の五輪塔が総心尼のものと思われます。
 常滑水野家は、知多の半田 岩常城中山家より養子を迎え新七郎保雅とし、尾張徳川藩に仕え、幕末までお家は続きます。これは、信長、秀吉にはない、徳川家の人材登用の特徴が見受けられます。明智光秀に係わった大名家と其の縁者についても徹底的に断絶せず、古くは、一向一揆に加担した家臣の多くを許している事。武田家討伐後、多くの武田の旧臣、小田原攻めの後、北条の旧家臣を多く執り込んでいる事。春日の局の登用然り!! 常滑水野家の再興は、監物守隆の正室、総心尼(常滑殿)のお家再興にかける執念が実ったものとおもわれます。水野監物守隆には、京都の側室(公家の娘)とのあいだに、新七郎と云う男子があり、このただ一人残った子供が、後に、家康に仕え水野河内守守信となり、長崎、大阪町奉行勤め、大目付に出世します。
水野・半左衛門家の家祖 水野河内守守信に常滑水野の血筋が繋がったわけです。