緒川城は、初代城主 水野貞守 が文明年間(1469年〜1486年)に築城して以来、、130年間水野一族の居城でした。 最後の緒川城主 水野分長が、慶長十一年(1606年)、三河国新城(しんしろ)一万石に移付され、緒川城は廃城となりました。現在は、土塁の一部が残っているだけです。古城絵図は、尾張藩が藩内の各街道に位置する古城を軍事的な防護施設として利用することを意図して作成したもので、正保〜承応年間(1644〜54)頃の作成と推定されています。この緒川城は、海岸沿いの平地を裾野にもつ低い山の中腹に築かれ、城下町と一帯となった平山城でした。中央やや南側の大き目の曲輪(郭)が、城の中核をなす主曲輪で、東西83m・南北95m程の方形状をなし、土塁と堀に囲まれていました。中央あたりで、「崖高五間」(約9m)と記入されています。この古地図が作成された頃には、曲輪の一部がすでに、開墾され畑地となつていました。 |
水野家中興の祖、水野忠政は、西三河刈谷に進出し刈谷城を築いてこれを拠点に勢力の拡大を図ります。忠政の息女於大は岡崎城松平広忠に嫁して、その間に生まれた一子が松平竹千代、後の徳川家康です。天下を取ってからは伏見城に呼び寄せ孝養を尽くしました。篤信の人であった彼女は実家の菩提樹である乾坤院に三里四方の山を寄進したと伝えられています。現在の境内一万五千坪、堂々たる大伽藍を有し、隣地にゆかりの名称の「於大公園」を含めて往時の姿を、近隣の市民はじめ、全国の人々の信仰とゆとりの場となっています。 |
戦国時代の真っ只中を駆け抜けた水野一族の思いが少し伝ってきたような感じがしました!! |
東浦町教育委員会 緒川城祉案内板 乾坤院各所案内板 「於大の方と水野氏」等参照 |