野間大坊 
 霊場の 『大御堂寺縁起』には、天武天皇(673年〜686年)の時代に開創され、聖武天皇(723年〜749年)のころ僧行基によって再興されたという古刹です。その後(弘法大師)が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き、庶民の幸福を祈ったと伝わっています。
承暦年間(1077年〜1081年)に白河天皇の勅願寺として大御堂寺と命名され、,一山七堂伽藍、十四坊が整えられたと云われています。建久元年(1190年)に、源頼朝が、亡父の菩提をともらう為に、頼朝の守り神 開運延命地蔵菩薩 を奉安し、野間大坊を建立。現在の大坊は、
京都伏見桃山城の一部を移築。客殿建築の風格そなえた本殿は、 寛永年間(1624年〜44年)に移築されたもの (県の重要文化財に指定)
大御堂寺本堂  野間大坊本堂 
大坊への脇道  源義朝の墓  将軍頼嗣公寄進の鐘楼 
 ここ野間大坊は平安の末期に平治の乱に敗れた源氏の棟梁 源義朝がここで、臣下に暗殺された地としても有名です。「我に一本の小太刀なりともあらば」 と無念を抱いて眠っています。無念を慰めるため、今でも、小太刀が、多く奉納されています。 
保元、平治の乱の乱で敗れた源義朝の子 頼朝の処遇について、清盛の義理の母池禅尼は、清盛に対して助命嘆願し断食をはじめた為、遂に平清盛は折れて、伊豆の国に流刑と減刑したとも言われている 。 この時、池禅尼より、頼朝に授けられた仏師定朝の作 開運延命地蔵菩像 を建久元年(1190年)野間大坊の本尊として奉安し,源頼朝は野間大坊を建立します。 大御堂寺に源義朝の墓があったが、誰も顧みる者も無く荒れるに任せていた。平康頼はこの敵将の墓を修理して堂をたて経を唱えさせ、寺領を寄進すなど、その保護のために尽力した功により、後に源氏より特別の処遇を受けるようになります。 源氏の命の恩人としてこの地に塚をたてて祀ったものと思われます。寺に関係した者が、有力な大御堂寺創建者の一人としての平康頼を供養して祀ったもののようです。尾張の国司目代 平判官康頼の墓については、諸説あるようです。
 
織田信孝の墓  
信忠、信雄の異母兄弟 織田信孝 の最期は、壮絶と云うか哀れなものでした 
織田信孝 辞世の句として、「昔より主を討つ身の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と伝えられています 
 永禄十一年(1568年)信長、北伊勢攻略後、神戸友盛の養子して神戸城(鈴鹿市)に入城。神戸信孝と名のり、三年後(1572年)、神戸家の当主となる。信長存命中は、伊勢長島一向一揆平定戦等に参戦し功績をあげる。神戸城を五層の天主閣を有する近世城郭を完成させた。四国平定の派遣軍の総司令官に任命され、その準備中に本能寺の変に遭遇。山崎の合戦では、秀吉の「中国大返し」に合流し名目的ではあるにせよ、総大将として明智光秀を討ちとった。しかし「清須会議」で、秀吉に主導権とられ、三法師の後見人として岐阜城に入城。美濃の国を領有することになります。秀吉と、織田家の宿老柴田勝家との対立は避けれないものとなり、賤ヶ岳の合戦が始まります。信孝の元服のおりの烏帽子親が柴田勝家でもあり、お市の方の勝家への再婚の仲介とった形跡があるようです。当然のように、柴田勝家方に組みします。秀吉方に味方した兄信雄に岐阜を攻められ、三法師を引き渡し、同時に多くの人質 生母、妹、娘、側室、その他,多くの重臣の家族が秀吉方に差し出されています。後に、略全員秀吉に処刑されることになつたそうです。信孝は、知多郡野間(愛知県美浜町)の野間大坊(大御堂寺)に送られ、切腹させられています。享年26歳.。信孝の首は、伊勢の神戸城では、引き取りを拒否され、伊勢関町の福蔵寺に首塚を造り手厚く弔らわれているそうです。