霊場の 『大御堂寺縁起』には、天武天皇(673年〜686年)の時代に開創され、聖武天皇(723年〜749年)のころ僧行基によって再興されたという古刹です。その後(弘法大師)が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き、庶民の幸福を祈ったと伝わっています。 承暦年間(1077年〜1081年)に白河天皇の勅願寺として大御堂寺と命名され、,一山七堂伽藍、十四坊が整えられたと云われています。建久元年(1190年)に、源頼朝が、亡父の菩提をともらう為に、頼朝の守り神 開運延命地蔵菩薩 を奉安し、野間大坊を建立。現在の大坊は、京都伏見桃山城の一部を移築。客殿建築の風格そなえた本殿は、 寛永年間(1624年〜44年)に移築されたもの (県の重要文化財に指定) |
織田信孝の墓 |
信忠、信雄の異母兄弟 織田信孝 の最期は、壮絶と云うか哀れなものでした |
織田信孝 辞世の句として、「昔より主を討つ身の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と伝えられています |
永禄十一年(1568年)信長、北伊勢攻略後、神戸友盛の養子して神戸城(鈴鹿市)に入城。神戸信孝と名のり、三年後(1572年)、神戸家の当主となる。信長存命中は、伊勢長島一向一揆平定戦等に参戦し功績をあげる。神戸城を五層の天主閣を有する近世城郭を完成させた。四国平定の派遣軍の総司令官に任命され、その準備中に本能寺の変に遭遇。山崎の合戦では、秀吉の「中国大返し」に合流し名目的ではあるにせよ、総大将として明智光秀を討ちとった。しかし「清須会議」で、秀吉に主導権とられ、三法師の後見人として岐阜城に入城。美濃の国を領有することになります。秀吉と、織田家の宿老柴田勝家との対立は避けれないものとなり、賤ヶ岳の合戦が始まります。信孝の元服のおりの烏帽子親が柴田勝家でもあり、お市の方の勝家への再婚の仲介とった形跡があるようです。当然のように、柴田勝家方に組みします。秀吉方に味方した兄信雄に岐阜を攻められ、三法師を引き渡し、同時に多くの人質 生母、妹、娘、側室、その他,多くの重臣の家族が秀吉方に差し出されています。後に、略全員秀吉に処刑されることになつたそうです。信孝は、知多郡野間(愛知県美浜町)の野間大坊(大御堂寺)に送られ、切腹させられています。享年26歳.。信孝の首は、伊勢の神戸城では、引き取りを拒否され、伊勢関町の福蔵寺に首塚を造り手厚く弔らわれているそうです。 |