平成25年の名古屋城はこちらから
  平成24年の名古屋城はこちらから
 本丸御殿第1期工事公開はこちらから
 名古屋城は、織田信長の誕生の地とされる那古野の城の跡地に、慶長十四年(1609年)、徳川家康が九男徳川義直のために天下普請によって築城されました。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川一七代の居城として明治まで利用されてきました。構造は典型的な梯郭平城で、本丸を中心として、南東を二之丸、南西を西之丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲み、さらに南から東にかけて三之丸が囲み、西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御されました。南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成されていました。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていいたようです。築城は慶長十九年に三の丸まで進むが、同年十月の大阪冬の陣、五月の夏の陣で中断..惣構えなどの普請は中断されました。
 
名古屋城案内図
今日は、4月6日 「城の日」で、平日は公開されない三ヶ所 東南隅櫓(矢倉)、 西北隅櫓(矢倉)、 乃木倉庫を見ることが出来ました。 今回は、東門から入場しました。
 東門を通ると、二之丸東庭園、名勝二之丸庭園見えてきます。 
東南隅櫓(重要文化財)の内部に入っていきます。 二ノ丸越しに東門を望む事が出来ます。 
空襲から、多くの障壁画を守りました。       
西北隅櫓(重要文化財)。清須櫓ともいわれる屋根三重・内部三階の櫓。清須城を移築したとも伝えられ外部北面、西面に千鳥破風が作られ、「落狭間」も備えています。  
名古屋城の天守は満開の桜がよく似合います。  
 御殿にあった貴重な障壁画の多くを空襲の焼失を予測し、乃木倉庫等、他所に移していて1047面もの重文が生きのびていたとの事。
戦時下に、必死に文化財を守ろうとした人々の気持ちが伝わります。
 
 平成24年の名古屋城の春。
 城内どちらを向いても、桜色一色 満開でした。名古屋城本丸は、1893年(明治26年)、陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と呼ばれていた。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開されるようにななりました。
西南隅櫓(坤櫓)の改修工事が、昨年は、石垣部分に仮設躯体が限られていましたが、今は、本体建屋全体に素屋根で囲って建屋の解体、再建が始まっていました。名古屋城の絶好の撮影スポット、平成26年の秋頃まで待たなければならないようです。
 
 
 平成25年の名古屋城の春
 本日は、天気快晴、風もなく絶好のお花見日より。満開の桜と、本丸御殿の工事の進捗状況を確かめに名古屋城に行って来ました。
月曜日であったためか、正門前駐車場に駐車が出来、ゆったりとした気分で満開の桜を充分満喫出来ました。
篠島の矢穴石(やあないし)愛知県の南知多町篠島から名古屋城築城のさいに、切り出された矢穴石が400年ぶりに名古屋城へと届けられたもの。平成24年9月23日、贈呈除幕式が行われ、城内で3か月展示された後、加藤清正像の近くのこの位置に常設展示されるようになったようです。 
「本丸御殿 玄関・表書院の公開開始」のカウントダウンを告げる電光掲示板あと 58公開は、  2013.5.29!
篠島では加藤清正が名古屋城の石垣を築くため、たくさんの石を名古屋城へと運んだと伝えられており、現在、約300の矢穴石が篠島に残っているそうです。石の上部に矢穴が1列に並んでおり、矢穴は石を切り取る際に彫られた穴のことで、切り取る線に沿って矢穴を彫り、彫られた矢穴に「ヤ」を打ち込んで石を割っていたそうです。 
 本丸御殿の表書院・溜之間 中之口部屋の外観は、ほぼ完成しているようです。床板と天井板の加工と取り付けが行われているそうです。床板は目鎹(めかすがい)と云う特殊な金具で裏側から固定するので、美しい床板の表面に釘穴が開くことはないそうです。今回は、久しぶりに天守閣に昇ってみました。名駅前の高層ビル群越しに鈴鹿山系の山並が見えるかと期待していましたが、春霞か、黄砂か だめでした。
 本丸御殿は、こちらから