村木砦の戦と寺本城
天文二十年、織田信秀が死去、信長が織田家当主として跡を継ぐこの時期、尾張は内紛に明け暮れ、今川義元は尾張攻略の絶好の時と判断。三河の安祥城を織田から奪い、西三河を松平氏に替わり、ほぼ全域を支配下に治め、いよいよ、本格的に尾張侵攻を開始した。 重原城(知立市)、沓掛城(豊明市)、鳴海、大高城(名古屋市)を次々とこれを自軍にとり込み、さらに、知多半島の寺本の寺本城もこれを、自軍に寝返りさせ、緒川の水野信元と信長軍との連絡通路を遮断に成功すると、緒川の水野氏の緒川城の鼻先にある村木の岬に、砦(村木砦)を築く事になります。この危機に、水野信元は、那古野の信長に援軍を依頼。天文二十三年(1554)、ここに後の世に語り伝えられる村木砦の戦いが開始されます。
現在は、JR武豊線、国道366号線が走り、周辺には、民家や、水田がひろがっているが、天文年間の頃は、衣ヶ浦に突き出た岬であったと思われます。砦は北が崖、東は海に面した大手門、西が搦め手(裏門)、南が大堀で一番丈夫な構えであったようです。三河の東条松平甚太郎義春を城将とし、村木砦を守りを固める中、信長は、那古城を舅の、美濃の斎藤道三からの留守部隊に委ね、天文二三年(1554)正月20日那古野を出発、21日に熱田の湊に集結、翌日には船で知多半島の西岸(現在の東海市横須賀町)に上陸。陸路半島を横断、23日には水野信元の緒川城に入城。その夜軍議を開き、翌24日早朝には村木砦に攻撃をはじめます。織田勢 水野勢合わせて千三百余騎。信長は一番堅固な大堀のある南側を、自ら指揮し攻撃を敢行し、堀端にいて火縄銃を取り換え取り換え撃ち放ったと、語り伝えられています。
其の日の夕方には、大勢は決し、今川方は降伏し砦はは落ちます。信長の天性の速攻性が充分に発揮された特筆すべき戦いがこの村木砦の戦であったと言えるでしょう。また、信長が、この戦いで、初めて鉄砲を実戦に使用したと伝えられています。後に、長篠の合戦に武田の騎馬軍団に壊滅的打撃を与える21年前の事であります。この戦いは、身近に、多数の死傷者だし、信長が涙を流したと伝えられています。後に、水野信元の家臣清水家重は、村木砦の跡に、八剣社建立し、戦死者の霊を祀りました。美濃の斎藤道三は、後に、家臣より、信長の戦ぶりを聞いて、蝮の道三をして 「すさまじき男、隣にはいやなる人にて候よ」 と云わせしめたと云う逸話が残っています。     所在地:愛知県知多郡東浦町大字森岡 八釼社
 
寺本城の攻防戦 
翌日、那古野に帰陣しますが、今川方に与していた寺本城(知多市堀之内)の花井一族を攻撃します。 知多市寺本、堀之内地内に天王山と呼ばれる小高い丘があり、堀之内の氏神である津島神社が祀られています。かってこの天王山には、室町時代から戦国時代にかけて、花井氏の本拠であった寺本城がそびえていました。寺本城は「尾張志」によると「堀之内にありて今天王山という東西五十間南北二十間花井播磨守其子勘八郎二代居しといひ伝えたり」と紹介されています。寺本城は別名「堀之内城」「青鱗城」とも呼ばれていました。この青鱗城の名の由来は、天守閣の鬼瓦が青銅の鱗形をしており、夕日に映えて伊勢湾を通る舟から良く見えるところからついた名であるといわれています。
所在地:愛知県 知多市八幡字堀之内
堀之内公会堂 この公会堂の右側の丘の上に寺本城がありました。 
現在は、頂上(主郭跡)に、津島神社祀られており、削平された平地になっています。
主郭跡より寺本の集落や伊勢湾が一望に出来ます。

寺本城があった岡

花井家菩提寺大祥院

花井播磨守信忠の墓
 寺本城主花井氏は、十五世紀〜一六世紀に寺本を中心に勢力を張った豪族であり、この時、今川方に人質を出し今川勢に加担し、織田方の緒川の水野信元への通路の遮断をする役目を担っていました。そのため天文二十三年(1554)一月二十五日、今川方との村木砦の合戦に勝利した織田勢により攻められ、寺本城下は戦火にあい甚大な被害を受けました。民家、神社、仏閣の大半が焼失したようです。花井勘八郎は、この後、織田の軍門に下り、大野宮山城の佐治上野介為貞の娘を室として娶り、大野水軍とともに、信長の支配下のもとで、水軍を率いて、各地に転戦したと思われます。後に、花井氏一族は、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に東軍についたが、西軍の九鬼水軍(九鬼嘉隆)に攻められ、落城。城下の古刹 法海寺はじめ、神社仏閣ことごとく焼失したそうです。花井一族は、信濃へ一度落ちのびる事になります。後に、知多に戻って来ているようです。
寺本城の地図はこちら
参考文献:知多市誌本文編  東浦町教育委員会発行 於大の方と水野氏 村木砦案内板等