尾張と伊勢の境界に位置する桑名城 (別名 扇城) に行ってきました。    
木曽三川に接した現在の桑名市一帯は、多くの河川が流れ込み、三つの大きな洲ができ、戦国時代には、それぞれに城や多くの砦が築かれ、小豪族が勢力を競っていたと云われています。これらの城や砦は、織田信長によって平定され、信長の家臣滝川一益の支配を受けることとなります。滝川一益は、初め矢田城(現在の走井山公園)に居を構えていたが、天正二年(1574年)長島一向一揆滅亡後に、長島城に移り、桑名には、代官を置き統治していました。豊臣秀吉の時代にも領主は殆ど長島城に在城していたようです。
本格的な桑名城の築城は、関ヶ原の合戦の翌年、慶長六年(1601年)、徳川家康が腹心の本多忠勝を桑名に封じた時から始まりました。
 
徳川四天王の一人 本多平八郎忠勝( 出陣姿を描いたもので、市の文化財に指定されています。立坂神社蔵)
   本多忠勝銅像
背には、愛槍「蜻蛉切」が天に向かって突き立っています.「天下三名槍」の一つに数えられています。
正保年間(1644〜1648)に作成された「勢州桑名城中之絵図」の一部 。 初代桑名藩主本多忠勝は桑名城の全面改修に取りかかり、天守、三之丸を完成させます。同時に、町割りにも着手し、現在の町割りの大部分は此の時につくられたと云われています。「慶長の町割」と呼ばれているそうです
辰巳櫓跡 桑名城本丸の東南の角に在り、三重櫓が有りました。元禄十四年(1701年)天守閣が焼失し、再建されなかったので、この辰巳櫓が、桑名城のシンボル的存在であつた。この為、戊辰戦争の時、明治新政府により、降伏のしるしとして、焼き払われたという。同時に、その礎石、石垣は撤去されました。櫓跡に置かれた旧式の臼砲(?)は、誰が、何故、何時置いたかは不詳。本丸天守閣跡地に、明治二十年戊辰戦争で戦死した藩士の慰霊碑がたてられました。 かっての勇壮な四重六層天守閣の石垣、礎石ではありません
扇橋より二之丸堀を望む 九華橋より二之丸を望む 神戸櫓が在った石垣。
蟠龍櫓 (ばんりゅうやぐら)。この先に七里の渡しがあります。右の写真の 手前が揖斐川、中央の堤の向こう側に長良川が流れています。遠くに、長良川の河口ぜきがみえます。
  
 東海道五十三次 桑名 安藤広重作(保永堂版)
 桑名では、元禄十四年(1701年)に大火があり、桑名城の多くが焼失し、以後再建された時点で51の櫓があったと記録されています。此のなかでも、河口にある七里の渡しに面して建てられた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名城のシンボルとなっていたようです。天守閣は再建されませんでした。戊辰戦争のさい官軍側にお城は徹底的に取り壊され、城の礎石は四日市港の建設工事の資材に使用されたそうです。 伊勢湾台風以降水害に対する大規模な護岸工事が行われ、高潮対策上、水門の集中管理が必要となり、管理棟が建てられる事となり、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)の外観復元が行われ、、四間×六間と比較的規模の大きい二重櫓で、推定復元されました。一階が管理室で二階が展望室になっています。現在の桑名城址を見ていると、平城には欠かせない石垣が徹底的に取り外され、新しく積まれた石垣で、一部に当時の石垣らしき箇所が数ヶ所見受けられましたたが、推定復元された物が大半で、維新における明治新政府の城取り壊しが徹底的に行はれた様子に、若干、寂しさが残りましたが、「海道一の城」と言われるだけあり、広くて満々と水を湛える様は、親藩桑名のお城としての風格と威厳が感じ取れました。
 
「華麗なる一門」の歴代桑名藩主 
初代 本多忠勝より、十八代 松平定敬(さだあき)まで、さすが徳川家の親藩桑名藩主の係累は華やかなもので、その時代々の歴史の中心に常に係わっていて、その係累を辿って行くと、江戸幕府開府から明治維新に至る歴史の流れの一端が見えてきます。かって小説、映画、ドラマに再三描かれていた人物がキラ星のごとく登場してきます。 
 
初  代 
本田忠勝
本多忠勝は、酒井忠次・榊原康政・井伊直政と並び徳川四天王と呼ばれ、安祥以来の徳川宗家の譜代の大名で、幼い頃から徳川家康に仕え、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。生涯において参加した合戦は五十七回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられ、数多くの逸話を残す戦国期の代表的な武闘派の武将です。西方への守りの要として、桑名城の本格的修築に取り掛かります 
 二 代
本田忠正
 本多忠政の正室は、織田信長によって切腹させられた徳川家康の長男 信康の息女熊姫であり、此の忠政の嫡子忠刻(ただとき)に、二代将軍徳川秀忠の長女千姫(豊臣秀頼の室)が、再嫁してきます。市内の春日神社に千姫が奉納した「家康の木造」あります。忠政、忠刻親子は、元和三年(1617)、播州姫路藩へ移付していきます。千姫の化粧料として、員弁郡治田郷一万石があてがわれたが、姫路移付後も、引き続き本多家の所領として、寛永七年(1630年)まで四日市に代官所置き所領を管理していたそうです。
 三 代
松平定勝
 松平定勝は、家康の生母伝通院(お於の方)と知多郡阿久比城主久松俊勝の三男として生まれ、家康とは異父兄弟であった為、松平姓をゆるされ、久松松平家を名のります。その中でも、一番の出世頭となります。桑名十一万石に、長島七千石を加増され、遠州掛川三万石〜伏見城代を経て、元和三年(1617年)に桑名へ移付してきます。元和六年(1620年)に、将軍秀忠、家光が上洛した時、桑名城に立ち寄っています。
 四 代
松平定行
 松平定行の代で、寛永十二年(1635)伊予松山藩へ移付します。伊予松山藩(久松松平家)は親藩として明治維新まで続き、戊辰の役には、戦わづ、恭順を示したが、土佐藩に一時期占領されていたようです・
 五 代
松平定綱
 定行の弟 松平定綱が美濃大垣藩より、桑名十一万石に移付してきます。定綱は城を修築し、桑名城は「海道一の名城」とうたわれた。「勢州桑名城中之絵図」は定綱の時代ものです。新田開発や産業振興にもつとめた名君と言われています。
 七 代
松平定重
 松平定重の代に、宝永七年(1710)、野村増右衛門刑獄事件の失政により、定重は越後高田(現在の新潟県上越市)へ移付させられます。此の事件は、刑死者四十四名をだすお家を揺るがす大事件となりなしたが、当初から疑問が多く、後に、その罪は許され、大正寺に供養塔が建てられました。四十四名もの刑の執行が出来たのは、さすが徳川親藩の桑名藩だから出来得た事だと考えられます。一般の大名家では、主殺し、親殺し、放火、謀反などの大罪は、幕府へ送り届け幕府の手で再度取り調べの上、刑の執行がされていたようです。上方では、大阪城代に送り判断をゆだねていたようです。藩主の失政は否めません。おそらく、藩内の権力抗争の結果によるものと思われます。
 八 代
松平忠雅 
 松平忠雅 (本姓奥平氏) 備後福山藩から移付。奥平松平家は、十四代松平忠堯(ただたか)の代で、文政六年(1823)突然の命で武蔵国忍(おし)「現在の埼玉県行田市」へ国替となります.。桑名には、白河藩主松平定永が、十五代桑名藩主として移付してきます。忍藩の阿部家にくらべ、松平家は3倍の家臣を抱えていた為、藩内は大変な騒ぎとなったようです。桑名藩領の一部が忍藩領となり、陣屋が置かれていました。此の縁により、桑名市と行田市とが姉妹都市となっているそうです。
十五 代
松平定永
 白川藩より移付してきた十五代 松平定永の父は、寛政の改革を行った老中松平定信であり、かって、越後高田藩に移付された七代桑名藩主松平定重の子孫にあたります。久松松平家が帰ってきた訳です。久松松平は、最後の桑名藩主松平定敬まで続きます。
 十八 代
松平定敬
 松平定敬(さだあき)は、美濃高須藩主の七男に生まれ、尾張藩主徳川義勝、徳永、合津藩主松平容保(かたもり)は定敬の実兄にあたります
定敬は安政六年(1859年)、久松松平家に養子に入り、桑名藩十八代藩主となります
元治元年(1864)四月京都所司代となり、京都守護職の兄容保とともに幕末の京都の治安を守っていました。戊辰戦争(1868)が 始まると定敬は幕府方につき、当時京都にいた将軍に従い大阪から江戸へ撤退、東北地方を転戦して最後は、五稜郭で降伏しました。定敬は、罪を許され、最終的には明治二十九年(1896年)日光東照宮宮司となり、家康に仕える事になりました。その間、桑名藩の恭順派は、倒幕軍に降伏し、無血開城して、市内は兵火を免れました。ただ、辰巳櫓は、桑名城のシンボル的建物であった為、降伏の証として、新政府によって焼きはらわれました。石垣、礎石はすべて、四日市港の築港工事の建築資材として利用され取り壊されました。初代本多忠勝から十八代続いた桑名藩は劇的な終焉迎えた訳です。

参考文献・資料 桑名市史 本編 桑名市教育委員会編集・発行 「目でみる桑名の江戸時代」 城内案内板等