桶狭間の戦いで、今川義元にとって最後の軍事評定(作戦会議)となったお城。愛知県豊明市沓掛町にある沓掛城と桶狭間の古戦場に行ってきました。この時期、沓掛城主、近藤景春は、鳴海城主 山口乗継・教吉とともに今川方に与していました。永禄三年(1560年)、5月18日今川義元は、駿河、遠江、三河の兵4万5千の大軍を率いて、この沓掛城に入城しました。この城での軍評定(作戦会議)が、義元にとって、最後の評定となりました。翌19日朝、本隊を従え、大高道通って桶狭間、田楽狭間に入り、あの運命の桶狭間の戦いに遭遇するわけです。桶狭間合戦の主戦場は、現在、二ヶ所が考えられ、其々、毎年、各種催し物が企画されています。名古屋市緑区桶狭間427番地 長福寺の前面に桶狭間古戦場公園が整備されています。外に、愛知県豊明市栄町南舘11地内の桶狭間合戦古戦場伝説地。今川義元の墓があります。両所の距離は、凡そ、1.5km程あります。
桶狭間合戦には、現在も謎が多く、いろいろ推測されています。「信長の迂回奇襲戦」説は現在では、ほぼ否定されており、今川軍は桶狭間と云う「狭間」に一時、陣を措き、山頂より、信長軍が、一気に駆け込み勝利したと云う現在ドラマでよく見る光景は、後世の作り話しであると言はれています。「信長公記」によよれば、今川義元は、「おけはざま山」に一時、兵を休めていた。そこを、、信長軍が中嶋砦から深田の一本道をまっすぐに今川軍に向かい正面攻撃をしかけたととれる記述があります。松平元康(徳川家康)により、大高城への兵糧米の搬入成功の一報は、すでに義元の耳に届いていたものと思われます。鳴海城、大高城を包囲した織田軍に、今川軍が後詰決戦を挑むなら、おのずと戦場は定まる。大高城、鳴海城に限りなく近い地点。そこは桶狭間山以外には考えられない。今川軍の不幸であったのは、大軍であったが故に、戦線が伸び切り、今川本陣の守備兵が、4000名程度であったとか。正面攻撃を目論む信長に幸いした事は、さらに、俄かの豪雨により、義元本陣直前まで気づかれづに、接近、奇襲に成功したと言うことです。信長は、全軍に「目指すは、義元の首1つ」を徹底させ、武功の証である敵方の首持ち帰りは合戦中は不要と下知したと伝えられています。今川義元は、今回の出陣は、京都への上洛遠征ではなく、従来の戦国期の典型的な領土獲得戦であったとも云われています。この合戦は、両軍の大将が、自ら、抜刀し交戦した近接戦であり、大混戦であったようです。桶狭間合戦は、まだまだ謎が多く、今後もいろいろな新説、新資料等が、紹介されるものと期待しております。以前より、不思議に思っていたことは、大高城をはじめ、桶狭間一帯を自らの領地として所有していた水野信元の動きが、全く見えてこないと言うことです。織田方に与していて、一度、今川方に寝返り、再度、織田方に戻ったとか。 |