清州城は、織田信長がここから永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いに出陣し、見事今川義元を討ちとった記念すべきお城です。清須から天下統一、天下布武の第一歩踏み出しました。反面、織田氏の終焉を眺めてきたお城でもあります。京の本能寺で明智光秀の謀反に会い、無念の最期遂げます。織田家の跡目を決める「清州会議」での主役に出てきたのが羽柴筑前守秀吉。信長の次男 信雄派 その弟 信孝派 相争う中、秀吉が推す信長の嫡子 信忠の一子 三法師(秀長)が織田家の宗家を継ぐことになる訳ですが、三法師を抱いて、信長の法事の場で、一番に焼香し後継者として印象付ける様子を詠んだこんな川柳思い出しました。    「一も二もなく焼香は三法師
 この三法師(織田秀長)は、岐阜中納言と呼ばれまでになりますが、秀吉の臣下としての立場。主従逆転!!戦国の世の厳しさ!!織田秀長は、関ヶ原の戦いで西軍方に組みしたため、高野山に送られ出家させられ、織田家の宗家は途絶えることになったようです
  
天下人「家康」の一声で、慶長一五年(1610年)清須のお城だけでなく、城下町一切 武家屋敷、神社仏閣、町屋、橋にいたるまで名古屋にうつされてしまったようです。 「清須越」。 町名、商家の屋号も含めて引っ越ししたようです。「松坂屋」 「竹中工務店」が「清須越しの商人」として、現在まで続いている店であったとは驚きです。 
  
名古屋城西北隅櫓 別名「清洲櫓」  清洲城の小天守の移築と伝わる。三階は内室は畳敷きであったようです。屋根は入母屋本瓦葺。現存する名古屋城の建物としては最古の建造物だそうです。米軍の空襲にも消失を免れたわけです。清州城は現在に生き残った。
実は、 「清洲越しは、高台移転」であった。はこちらから