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 国衙領地頭 荒尾氏::現在の東海市荒尾町一帯を中心に、鎌倉、室町そして戦国時代を生き抜いた荒尾氏一族がいました。 荒尾氏は鎌倉幕府の御家人として知られ、尾張国知多郡にある荒尾郷を名字の地としこの荒尾郷および尾張国中島郡に所領をもっていたことが知られています。鎌倉、室町幕府に対して一貫して奉公衆の立場を貫き、あらゆる手段を使い、守護職から独立し、国衙領、御料所の地頭職、代官職を維持し続けます。守護職からの独立を意図し、当時、武士階級に一般的にみられた風潮であった臨済宗寺院への所領寄進を積極的に進めていった形跡がみられます。貞和四年(1348)、滅宗宗興による開創された臨済宗 妙興寺(愛知県一宮市)に対し、中島郡内の所領の大半を寄進。さらに、荒尾国衙領を含む尾張の国衙領は、この時期、京都醍醐寺三宝院の門跡領となり、荒尾氏は、寄進した自らの国衙領には、実質的支配管理を請け負う地頭請を成立させています。正税(しょうぜい)という領主年貢を納入する権利を条件として取り付けていました。建武政権によって、一時、領地は没収されますが、足利政権に対する軍功により、さらに地頭職としての強力な地盤を確立していきます。知多郡内の額石保(ぬかいしほ)(知多市)もその国衙領の一つと云われています。さらに、妙興寺は、此の頃、北朝方の祈願所として、高い格式を与えられた有力寺院となっており、此の寺院の大檀家となって居た荒尾氏にとっては、政治的にきわめて有利な条件として考えられます。
奉公衆荒尾氏:御料所代官:荒尾氏は、室町政権発足当時、既に、知多郡荒尾郷も含め、11ヶ所の地頭職を持って、守護大名にも対抗出来る有力な国人(こくじん)に成長していました。
後には、守護大名の巨大化を防ぐ為、幕府直属の奉公衆 幕府直轄領(御料所)代官として働きはじめます。事実、十四世紀後半より、荒尾郷は、歴代の尾張守護、三河守護一色氏、美濃・尾張守護の土岐氏の支配からも常に独立を保ち続けました。荒尾郷は幕府の御料地として組み込まれ御料地代官職として生き残りをかけ御奉公衆として働いたようです。御奉公衆は、五番に編成された「御番帳」に登録され、常時は在国するが、交代で上京し京都の警備にあたっていました。非常時には、幕府軍の中核として参集するシステムが確立していたようです。この「御番帳」に荒尾姓を名乗る奉公衆が散見されます。文安年間(1444〜49)には、四番に「荒尾小太郎」。長享元年(1487)に同じく四番に「荒尾民部少輔」・「荒尾小太郎奥輔」。これらの奉公衆としての荒尾氏が、知多郡荒尾郷の荒尾氏であり、鎌倉時代の国衙領地頭の荒川一族の後裔である事は間違いないものとおもわれます。この「御番帳」とほぼ同時代に諸国にかけられたいたようです。「康正二年(1456)造内裏段銭并国役引付」に四貫文荒尾小太郎殿尾州智多郡段銭と国役の納入記録が残されています。段銭とは、当時、守護が各荘園や国衙領の郷保から年貢を取り立てて一国分まとめて納付する権限をさし、こうした守護の統制をはなれ、独自に京都へ直納する特権を認めさせている所領がありました。荒尾郷などは幕府の直轄領、御料所として直接管理していたようです。三河守護一色氏が、一時期、知多半島ほぼ全域をその支配下おいていた時にも、この荒尾郷は、守護の段銭徴収権の及ばぬ荒尾氏の管理する所領でした。
 戦国期の荒尾一族:
 荒尾氏の代官職も、その背景にあった将軍の権威失墜に相まってその実態がなくなり、戦国期に織田信長に仕えた木田城主荒尾(小太郎)出羽守空善まで、その系絡は途絶えてしまいます。
各地に台頭してきた守護・守護代、在地武士勢力との壮絶な存続をかけた戦さ、駆け引きが有った事がうかがわれます。
荒尾家菩提寺 運得寺 荒尾氏三代の位牌があります。
@ 荒尾出雲守空善 A 荒尾美作守善次 B 荒尾美作守善久。墓塔三基は、室町時代の作で、この荒尾地区領主・荒尾氏の墓塔と伝えられています。このうち一基は、応永十三年(1406)の記年があり、知多半島最古と言われています。荒尾家の家紋「九曜」の紋。
所在地:住所 : 愛知県東海市荒尾町西屋敷89
 この出羽守空善は、織田信長につき、「村木砦攻め」・「堀之内城攻め」に参戦し、木田城を改修し荒尾氏の拠点とします。荒尾空善は、今川義元との戦いの中で戦死(弘治二年 1556)しております.。その跡を継いだのが大野城主佐治為貞の子 美作守善次であり、大河ドラマ「お江」の 夫佐治与九郎一成の叔父にあたる美作守善次が荒尾家の当主になります。美作守善次の嫡男 善久が、浜松の陣(三方ヶ原の戦い)で討ち死にしため、美作守善次は、娘の嫁ぎ先池田恒興より、次男(古新丸)を養子として迎え当主としました。後の姫路城主 池田輝政です。元龜三年(1572)古新丸九歳の時でした。これより、荒尾家は、池田家と共にその臣下として生きのびていきます
 木田城と観福寺         所在地:住所:東海市太田町天神下ノ上5
 「村木砦の戦」の際、織田信長の軍勢が一時、この木田城地に滞在した際は、観福寺境内にも軍勢があふれていたと推測されます。
此の岡の左端に木田城の大手門(?)。 岡は現在は全て民有地で、空堀が一部残っていると云われているが確認は出来ませんでした。地名として城山、岡の西の端の交差点が城之腰としてのこっています。観福寺の山門も木田城の縄張りの一郭となっていたようです。
城之腰の交差点を少し登ると物見櫓があったかもしれない位置に社が一宇ありました。 観福寺は寺伝によれば大宝二年(702年)行基の建立といわれています。本堂は、県の指定文化財(建造物)であり、本堂内部には、観福寺本堂内宮殿(かんぷくじほんどうないくうでん)が収められており、:国指定重要文化財となっています。
観福寺は、常滑の高讃寺、南知多の岩屋寺と並び、知多三山の一つに数えられる古刹です。 国、県、市指定の数多くの重要文化財が寺宝として保存されています。
 三好青海入道と観福寺
木田城主池田輝政の家臣に此処荒尾村渡内出身の深谷助左衛門という侍がいました。助佐衛門はとても大きく信心深く、力の強い大男でした。またの名を三好青海入道と云いました。 さらに百人力を賜るよう観音様に願を掛けました。すると三十六貫もある鉄棒を木の杖のように軽々と持ち上げるようになりました。戦場での活躍は目覚ましく池田輝政公大いに満足されたそうな。後に戦が終り、三好入道は観福寺に鎧一式を寺に奉納することなりました。三好入道の兜をかぶると夏病しないと云い伝へられています。その三好青海入道の奉納したとされる(?)鎧、帷子が本堂に展示されていました。
 その後、信長の破竹の勢いの天下布武作戦に各地転戦し池田家は功名あげていきます。古新丸(輝政)の初陣は、村木村重の叛旗を翻した花隅城攻めであった云われ、天正八年(1580)、合戦の功績により池田恒興が兵庫城を築城し転附することとなり、荒尾一族も主君池田家に同行、先祖伝来の荒尾ノ郷、木田城を離れ、摂津の国に食邑を移していきます。此の時、池田家本家に大変な事がおきます。 天正十二年に始まった小牧・長久手の戦いで池田家当主恒興と嫡男元助が戦死します。木田城主池田輝政が池田家宗家を急遽継ぐ事となったわけです。そのご、輝政は豊臣秀吉、徳川家康と仕へ、慶長五年播磨国五十二萬石、同八年備前国三十一萬五千石の加増、同十五年淡路国六萬三千石の加増 合算すると九十萬石の大大名に出世します(播磨国姫路城の大改修に取り掛かり、現在の姫路城の原型を築きます。)輝政の死後、池田家は鳥取、岡山に分かれ、荒尾家は鳥取池田家に附属させられます。それぞれ米子と倉吉に分かれ家老職を明治に至るまで務め、維新後は華族に列せられ永く木田の荒尾の家系を世に残すこととなります。
 参考文献:  東海市史 通史編・ 張州雑志 第一巻・ 尾張国誌・ 尾陽雑記・ 尾張国知多郡誌 各種境内案内板