後編
 羽柴秀吉と織田信雄の関係が、険悪化してきたなか、織田信雄は天正十二年三月(1584年3月6日)に親秀吉派の自らの三家老を処刑し、秀吉との関係が決定的なものとなり、織田家の同盟者であった徳川家康に援軍を求め、家康は是に応じ三月七日に出陣した。これ以降、実質的には秀吉と家康との戦いとなる。世に言う「小牧・長久手の合戦」の勃発である。 羽柴秀吉は此の長久手の戦いで徳川家康に大敗を喫し、雪辱を期して仕掛けた戦、それが「大野・蟹江城合戦」である。天正十二年六月十六日 九鬼・滝川の水軍(約三千)が蟹江沖に集結し、蟹江城二之丸の前田与十郎長定、下市場城には、与十郎の弟与平治利定、下一色の前田城には、与十郎の子甚七郎長種の内応を取りつけ、直ちに、上陸を開始し、尾張南部の海岸線に一応、橋頭堡を築くことに成功した。しかし、完全な無血入城とはいかなかった。 蟹江本城の留守居役の佐久間正辰(正勝の叔父)が守る本丸の明け渡しに手間取り、又、城内には、鈴木重安・重治兄弟等の抵抗に会い、さらに、蟹江城支城 大野城の山口重政は内応を拒否し頑強に抵抗していた。 これらにより、潮時を逃し、武器、弾薬等物資の荷揚げが充分に行えず、以後の合戦に大きく影響を及ぼしてたと考えられる。此の大野・蟹江城の合戦は、徳川・織田勢にとっては、時間との勝負であつた。秀吉の本隊が救援にくるまで、いわば、背水の陣立てをした。家康の家臣団のすべてを投入し短期決戦を期している。(本多、大久保、榊原、土井、松平、井伊、奥平、大須賀、水野、丹羽、石川の諸将) 従って、此の合戦を扱った古文書も多く、列記すれば次ぎのごとくである。曰く、「武徳編成年表」「三河風土記」「武家事記」「家忠日記」「新編東鑑」「駿府記」「小牧陣始末記」「井伊年譜」「山口家伝」「張州志略」「武将感状記」。それぞれの古文書の多くが、如何に自らの一族が勇敢に戦い、働いたかを伝えようとした意図が根底に在り、合戦の経過と結末についての客観性に疑問が残ると言われている。長久手の戦いで、鬼武蔵と威名持つ森長可を討ちとった大久保忠世の配下 本多八蔵も蟹江城攻めに転戦し、蟹江城海門口で討ち死にしている。陸に、海に大将同士直接、刃をかさねる混戦であったことが語られている。
合戦の推移を「山口家伝ー蟹江一乱」、」「尾州志略」と「武家事紀」を中心に辿って、蟹江城攻防戦を推測してみた。 尚、「山口家伝」は、大野城主山口重政に若年より仕えた鈴村藤之介高政入道が語り継がれた物語を記述したもので、「其のつまひらかなる事をかたりし由、是に書加へるものなり。此書ハ、台徳院殿(徳川秀忠)之老臣 土井利勝殿の真筆なり」と、幕府の公文書として保存されているようだ。内閣文庫に襲蔵の第一級の資料と言われている。
 
六月十七〜十八日 両軍の水軍が激突します。 
 九鬼水軍が、引潮で、水位が浅く、進退が思うようにまかせなかったと時、徳川方の水軍(織田有楽斎指揮下にあったと思はれる)、間宮、小浜、戸田、千賀、等が、湊口に大船を横たえ、口を塞ぎ「あい鉤」打ちかけ進退をうばった。小舟に乗じて一斉に攻撃をかけた。(家忠日記)では、「後本所様(信雄)大船にのりかけ、敵船を取り、人数討捕候」 とあるから、信雄自身が大船に乗って合戦の陣頭指揮にあたった様子がうかがえる。知多の大野湊の東竜寺の古過去帳に載っている間宮造酒丞信高の戦ぶりを、「武家事紀」(山鹿素行)の記述によれば「間宮信高、小浜以下ヲ、シヨケ湊口ニ大船ヲヨコタエ、九鬼ガ舟ト相戦・・・アイカギヲカケテ九鬼ガ舟ヲ引トドム、九鬼危ナカリケルヲ、九鬼ガ家人 村田七太夫ト云ウモノ、船ノヘサキニ立テ、間宮に言ヲカケ、両方相タメニ致ス、其内諸軍勢見スル内ニ、九鬼ハ舟ヲ沖ニダス。間宮ツイニ討チ死ニス也
間宮鉄砲を持って舳先に立ちて、追いかける。嘉隆の兵村田七太夫軽舟を廻し、是も鉄砲にて相向ふ。村田は猟に出て走獣にも外さず射るほどの妙手なれば、手早に放ちて間宮を船底に射落とす。」「続武将感状記
 
両軍、相当数の鉄砲を所持し、海上戦に攻城戦に激しく打ち合った「尾州蟹江の鉄砲合戦」の幕が切っておろされた。
両者名のりをあげて、互いに鉄砲で相向って撃ち合う当時の戦ぶりがうかがえて面白い。
 六月十六日〜十八日 陸上で攻城戦
 六月十六日(大野城をめぐる攻防
 「滝川勢が人数出し、大野城をせむ。重政兵少なくゆえに状を、清州(家康)、長島(信雄)、萓生(佐久間正勝)、駒尾(山口半左衛門重勝)に出してかせいをこう。その間、かたきの兵が時のこえをあげ、囲みをせむる事甚だ急也。又、てきの船、十そう、海上より大野川にうかんで城下に至る。長次郎重政、しきりにタイマツをなげて船二そうをやく」この直後、松葉の宿に居た井伊直政の軍勢は、海雲寺あたりにひそかに小舟で掘りの柵を切り破っていた。
六月十六日、清洲城にいた徳川家康は、蟹江城の異変に気づき、瞬時に決断し直ちに、出陣している。言い伝えでは、家康 入浴中に異変を知り、浴衣のまま馬に乗り飛び出して行ったと。かって、織田信長が桶狭間の合戦に単騎、飛び出して行った時と似通っていて面白い。16日の夜半、17日の未明には蟹江城の東方1.5キロ前田城西北の戸田村(名古屋市中川区富田町戸田)に本陣を設営した。ここに「家康公駈けつけられ、戸田に小口をとられ候」 ※1 小口とは端緒の事で、攻撃の足掛かりになる場所を決めたと云う事。
「蟹江一乱」によれば、戸田に一堂宇があって、家康は此の屋根の上にあがり、四方を偵察し、山口重政を呼び寄せ戦況の詳細を報告うけている。直ちに、武将の配置と戦場掟てを定めた。
 六 月十八日早朝より、総攻撃が開始される。 
 (下市場城への攻撃)
 海手口は、大須賀康高、榊原康政勢と間宮、戸田をはじめとする水軍が取り固めて、海からの滝川、九鬼勢の後援部隊の通路を遮断。これにより、滝川一益は九鬼の大船への撤退の機会を逃し、蟹江城へ逃れる。搦め手より、山口重政を中心とする織田信雄勢の攻撃が始まる。「夜ニ入リ、此の城後ノ沼(搦め手)、・・・・・其の根夥シク沼中ニ繁;ル故、・・・茎根殆ンド竹椽ヲ掻タル如ク、深泥ノ中、、歩ム事労セズ・・・・味方忽チ沼ヲ渉り、山口ガ臣水野彦一、馬印ヲ持テ、先登シ、諸軍続テ攻入、忽、城陥ル」「蟹江一乱」によれば、さらに、重政の臣竹内喜八郎が城将前田与平次利定を討ちとり首をあげたと。六月十九日未明、下市場城落城。
 前田城の攻防
 六月十八日下市場城と同時に攻撃。城主 前田与十郎の子甚七郎長種。追い手口に石川数正、搦め手より、阿部信勝が攻め入る。阿部信勝、城中の水の手をとり抑え、「六月二十三日辰戌前田城わたし候」城主前田長種は、城を明け渡し、同族の加賀前田利家に逃れ、、その後、能登の所口城をあずけられ、さらに、小松城を預けられ二万石を領することなり、子孫代々加賀前田家中として仕える事となる。下市場城より、落城に時間を要したのは、城の堅固さに依るのではなく、下市場城が蟹江城の直接の端城であり、徳川・織田軍の攻撃の主力が、蟹江城・下市場城に向けられていた為めと思はれる。加賀の前田利家を輩出した荒子の前田一族は、ここに先祖よりの領地を失います。
速念寺所在地:名古屋市中川区前田西町1丁目904番地
前田城跡に、前田家鎮魂の寺 速念寺が建てられ、最後の城主前田与十郎外一門の墓が祀られています。
 六月二十日〜二十六日
蟹江城への総攻撃 
大手口へは、大須賀康高、酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、水野忠重、水野勝成。 搦め手口は、石川数正、内藤家長、酒井忠利の面々。濱手口 丹羽氏次、織田勢は攻め口の三手に分かれ押備(おしぞなえ)待機していた。「山口家ー蟹江一乱」によれば佐久間正勝、山口重政は、西口の先方として、日暮れより攻め入り、平三ノ丸と呼ばれる三ノ丸を乗り取った。ここは接近戦となり両軍相当な戦死者だしてる。 「城の西より、攻め入り、平三ノ丸を乗り取り、城兵おどろきて、鉄砲討ち、重政の甲にあたる。然るに、鉄砲の玉とらざれども、頭大いにはりて、甲をきる事かりがたく、鉢巻きして陣を勤む。此の時、重政の家来横地小左門他多く、すすみて討ち死にす。長次郎重政廿一才也」(蟹江一乱)。此の日の混戦ぶりは、大将同士が戦う大乱戦となり,尾張刈谷城主水野忠重・勝成親子の奮戦ぶりが語り伝えられている。勝成は東大手門の城門から、城内へ引き上げる敵の殿軍の将滝川三九郎一忠(滝川一益の長男)と槍をあわせ、双方鎗キズを負う。水野忠重は、南大手にあたる海門寺口の城門まで押し寄せ鉄砲の猛射をうけ、味方の死骸引き除けて、乱入。敵の首を取って家康の見参にいれたところ、「其方が高名首之儀、珍しからす。今日の立物(兜の前立)こそ見事」矢が、四〜五本も兜に立っており、一本は頭に刺さっていて、この傷痕は後世まで残り、武勇の程語り伝えられた。長久手の戦で、鬼武蔵と威名を持つ森長可守の首級をあげた本多八蔵も、此の日のこの戦いで戦死している。夜にはいても、攻撃は止まず、(勢州軍記)「棲楼(せいろう)ヲ上ゲ、弓、鉄炮ヲ放チ、火矢ヲ射ル、夜ニ入リテモ鉄砲ノ連射有リ、城中モ同ジク之ヲ打チ返ス。」「終夜(よもすがら)のすさまじさに、城の兵共(つわものども)は、せみの抜け殻のように成りぬ。矢だねも玉薬も尽しかば」城中、「いよいよ無勢なりければ、織田有楽を以って信雄へ降参す。家康公、前田反逆の者なれば切って出し、滝川は信雄へ対し弓引きまじき旨、誓紙つかまつるへき由仰せけり。滝川其身起請文仕って申の7月2日に城を明け伊勢の神戸に退けり。滝川、是より天にもつかす、地にもあられぬ境界となって、一身をおくに所なく、後は、越前の国五分一という所にて餓死のていにて終りけりとぞきこえける。」(尾陽雑記)「山口家蟹江一乱」によれば、滝川一益が降伏したのは、6月26日とし「権現様(家康)と常真(織田信雄)、滝川が命をたすけ給ふ事は、重政が人質の母のころさざるべき事に憐れみ給てなり」とあるが、いささか重政の思い込みが強いと思われる。
 蟹江城落城のその後
佐久間正勝は、此の戦の後、留守中に部下の謀反を出した事を恥、剃髪して姿を隠し、三河笹原(現豊田市)に移り住んでいたが、その後、秀吉のおとぎ衆となり、そのあと武士を捨て茶人となる。 一方、山口重政はこの戦での手柄により、家康より厚く遇せられ、関ヶ原の合戦の後、常陸国(茨城)牛久藩で一万五千石の大名に取り立てられる。寛永八年、波乱の一生を終えた。享年七十六歳、天寿を全うし、京都紫野 大徳寺高東院に墓があるとか。この後も、秀吉は濃尾方面、北伊勢へ出兵するが、両軍、さしたる戦果もなく、膠着状態が続く。滝川一益の蟹江城退城によつて、蟹江地方一帯は完全に織田信雄の手に戻った。家康と信雄は、二ケ月後、清州城で会談、善後策を練り,10月17日家康は岡崎に、信雄は長島城にそれぞれ戻る。11月11日、秀吉と信雄は、伊勢の国矢田河原(三重県桑名市矢田磧)に会見し、和議が成立する。和議の条件は、北伊勢四郡のうち、秀吉が占領していた地域は、信雄に返し、南伊勢、伊賀は秀吉の占領をそのまま認めるとした。此の戦の勝敗を分けた要因の一つに、家康の決断の速さと、部隊を適材適所に配置し、作戦を的確に実行した用兵の巧さが感じとれる。さらに、織田・徳川方に有利に働いた要因に、例年より、雨が少なく、湿地帯に立つ城の守りが充分機能していなかった事。さらに決定的な事は、滝川一益の今回の一連の奇襲上陸作戦は、秀吉と連絡を密に取らず、功名手柄を焦り、独断専行を行った気配が色濃く感じ取れる。上陸作戦直前に、秀吉軍本体は、大阪に帰っている。この時期、秀吉は、自らの天下取りの最も重要な時期に直面していて、この戦も天下取りの戦略の一環として位置づけ、戦術的には敗れるも、信雄と和睦を取り付け、家康に対しても、戦さの大義名分を無くし戦略的に勝利したとも考えられる。家康にとっても、又、海道一の弓取りとして、天下にその実力を示した事は、次ぎの天下取りの基盤を確立した意義深い合戦であった。9ヶ月に及ぶ「小牧長久手の戦い」の収束を飾るに相応しい「大野・蟹江城の合戦」はかくして終息した。前田城、下市場城の二城は、落城後間もなく破棄される。蟹江城、大野城は、天正13年11月29日の「天正の大地震」で倒壊し、さらに12日間余震が続き、「ゆりコミ」(液状化現象)で壊滅的状態になり、廃城となったものと思はれる。

因みに、この「天正の大地震」は、震源は岐阜県北西部を中心とする複数の内陸型活断層が連動して発生したと言はれているが、その規模は、日本海まで続き、若狭湾への津波が到達したと古文書に記録が残っている。「『兼見卿記』には丹後、若狭、越前など若狭湾周辺に津波があり、家が流され多くの死者を出したことが記され、『フロイス日本史』にも若狭湾と思われる場所が山ほどの津波に襲われた記録があり、日本海に震源域が伸びていた可能性もある。」
近江の長浜城、越中の木舟城、西美濃の大垣城、飛騨の国帰雲城がこの地震で崩壊している。


背後の地滑り痕が天正地震による崩落の跡
お城と城下町が同時にこの崩落で消滅したと言い伝えられている。

 参考文献 蟹江町史 佐屋町史 尾陽雑記 蟹江町歴史民俗資料館案内資料等