日本三大山城の一つに数えられている「岩村城」 別名「霧ヶ城」へ行って来ました。 岐阜県恵那市岩村町98番地
 この城は、日本で最も高地(海抜717メートル)にある山城として有名です。又、「女城主が奮闘したお城」としても有名なお城です。戦国動乱期、岩村の地の利が、美濃路、信濃路、三河路とを結ぶ、あまりにも重要な拠点で有ったが為、戦国の動乱に否応なく巻き込まれて行きます。遠山氏として最後の岩村城主となった遠山景任は、先代までの武田方に款を通じていたのを織田方に与するよう方針転換をはかります。信長もまた美濃を固めるために遠山氏の力を必要としていました。信長は叔母を景任に嫁がせ、妹を苗木城主遠山直廉に嫁がせています。信長はさらに岩村城のもとに五男の御坊丸(勝長)を嫡子として入れるほど、遠山氏との繋がりに力を入れていました。均衡が破られたのが、元亀元年(1572年)、甲斐の武田信玄の重臣秋山伯耆守晴近(信友)が、突如、三千の軍勢で、上村(岐阜県上矢作町)に侵入してきたことに始まります。遠山勢と徳川勢の連合軍五千がこれに立ち向かいますが、武田軍に大敗を喫します。遠山一族にとっては、晴天の霹靂と云うべき大事件でした。天正元年二月、武田勢の本格的な岩村城攻撃が始まります。寄せての総大将は秋山晴近です。時に岩村城主遠山景任は既に病没しており、未亡人、「修理夫人」(「おつやの方」「お直の方」ともよばれています。)は、甲冑を身に纏い、、御坊丸を守り立て全軍の指揮をとり勇猛果敢に防戦し、霧ヶ城の堅塁とあいまって容易に開城せず大奮戦します。此の戦が、後に「岩村の女城主」の奮戦記、戦国悲話として現在に語り伝えられています。この時期、織田信長は、近畿地方での信長包囲網の対処に奔走していて、援軍を派遣出来る状態でありませんでした。女城主の孤立無援の籠城戦が続きます。秋山は密使を送り、自分が夫人を正室に迎え、そのうえで御坊丸に家督を譲るとの条件で無血入城を果たしました。兵の命を救うためか、家臣団の圧力に屈したのか。しかし、御坊丸は、甲斐の武田信玄のもとに、人質として送られてしまいます。 秋山晴近に約束を反故にされたわけです。
 
 岩村城復元絵図
 
 信長は激怒し、岩村城奪還の兵をあげたが逆に攻撃を受け退き、東濃での武田優位の情勢が続きます。
事態が動いたのは、長篠・設楽原合戦で武田の力が衰えた後、天正三年(1575)、信長は嫡男信忠を総大将にして大軍を差し向け、信忠軍は約半年間、城を包囲。援軍が来ないまま、秋山は城兵の助命を条件に城を明け渡します。ここでも、女城主修理夫人は、戦国の非情を体験する事になります。
城兵は妻子従類をひきつれ、城を出て信州に落ち延びようと木実峠にさしかかった時、織田勢不意に後先より現れ、武田勢謀れたたかと怒り、必死に抵抗するも、遠山七人衆を含め、ことごとく討ち死にしたそうです。
秋山晴近、妻修理夫人も、岩村城外大将陣にて逆磔にして殺害されます。一説では、岐阜の長良川の河原で処刑されたと云われています。太田牛一の「信長公記」は、秋山ら三人がお礼に参上したところを、信忠が捕らえ岐阜に送り「右三人、長良の河原に張付(はりつけ)に懸け置かれ」とあり、残された城兵も「残党悉(ことごと)く焼き殺しになされ候」と。
此の時、夫人は、『我れ女の弱さの為かくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすは、必ずや因果の報いを受けん』と絶叫しつつ果てたといわれています。戦国の世の因果か、織田信長、信忠、御坊丸(天正九年武田勝頼より安土に送還され、元服し織田勝長と改め犬山城主となる)天正十年、明智勢に京都本能寺、二条御所で討ち取られます。
信長は、岩村城に河尻秀隆を置きます。以後、岩村城主は、めまぐるしく交代します。地理的に戦略的に重要な位置を占めていたためか、明治維新まで岩村城は廃城となりませんでした。天正十年以来、森蘭丸、森長可、森忠政の森氏三代の城代を十七年務めた各務兵庫によって、中世城郭を近世城郭へと変貌され、ほぼ現在の城郭が形成されたと云われています。以後も、時代の節目々に城主が変わります。関ヶ原役以後は、大給松平家二代、丹羽氏五代、大給分家松平家七代と徳川譜代の大名家が入封しております。岩村藩は明治新政府に帰順し、明治二年に藩籍を奉還し、明治四年廃藩置県が断行され、明治六年、城は民間に払い下げられ、取り壊されました。鎌倉期以来の名城、岩村城は八百年の歴史の幕をおろしました。
参考資料 岩村町史 城内各種案内板