三河安城市の本證寺に行ってきました。本證寺は寺と云うより、城郭でした。二重に堀や土塁が巡らされ、あたかも城を思わせるところから城郭伽藍の代表的遺跡として知られています。こうした遺構は真宗寺院の特有のものですが、本證寺の堀と土塁は、現存する城郭伽藍としては、全国的にも大変貴重な遺構だそうです。本證寺(ほんじょうじ・安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(しょうまんじ。岡崎市針崎町)は、三河における本願寺教団の拠点で三河三ヶ寺と呼ばれていました。家康の父(松平広忠)の代に、守護使不入の特権を与えられていました。三河統一が始まった間もなくといった時期、松平元康(家康)に思いもよらぬ危機が訪れます。西三河を中心に永禄六年(1564年)、現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)が中心となり、真宗門徒に檄を飛ばし、守護使不入の特権のもと領主松平元康(家康)に叛旗を翻します。三河一向一揆です。家康の家臣団の多くが門徒宗に与するなど、最大の危機に直面します。本多正信、夏目吉信(後に、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとして討ち死にする忠臣)・・・門徒宗に加え、反家康勢力・桜井松平、大草松平、吉良氏、荒川氏が結集し岡崎城まで攻め上がり家康を窮地に追い込みます。
境内は二重の堀と土塁に囲まれるなど城郭的防備に主眼を置いた伽藍配置になっており、「城郭伽藍」・「城郭寺院」とも呼ばれています。現在土塁は、一部が庫裏の北側に残存しています。二重の堀のうち、内堀はすべて現存し、外堀は大部分が地中に埋もれていますが、近年の発掘調査によって詳細が明らかになりつつあります この三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、後に徳川家康の三大危機と言われる程の大事件でした |
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