さらに、梶川五左衛門なる人物が、田畠壱拾九貫文目と山一ヶ所を、天正十一年(1583)、寄進をしています。梶川五左衛門とは、梶川秀盛のことで、かって、梶川五左衛門は緒川水野信元の家臣で、成岩城攻略後、信元より、成岩城城代を命じられ、一時、横根城、大脇城より移された経緯があります。寄進した天正十一年当時、小牧・長久手の戦いの準備に織田信雄方として、急遽この地に砦を整備し秀吉方に対抗する準備に入ったと考えられ、本格的な城造りは考えていなかったと推察出来ます。現在、横根城が在ったとされる場所は、遺構は何も残っていません。大脇城は、古文書に記載があったが、最近になって発掘作業でその存在が確認されました。築城時期は不明。水田を中心とした平城で、城主は梶川五左衛門。桶狭間の合戦当時は織田信長側につき、今川義元側の徳川家康と戦ったと云われています。伊勢湾岸道路・豊明インター北の測道に「大脇城址」の碑が立っています。 此の梶川五左衛門秀盛は、後に、池田輝政に従い、(1592〜98) 文禄元年〜慶長3年 文禄・慶長の役に参戦。湯川(やくでん)の城(ソウル郊外)で、戦死しております。享年六十歳。戦国期には、水野家より、代々、寄進等の保護を受けていたようです。水野宗兵衛(惣兵衛)より、二十石三斗九升四合並びに山屋敷の寄進があり、水野家と真慶又は延命寺との関係は大変深いものであったと推察出来ます。水野宗兵衛とは、水野忠重のことです。江戸時代には、尾張藩から二十石余の黒印の安堵を受け、さらに、九ヶ郷、四十五村の遷宮導師を務めていたそうでうす。横根城、大脇城、沓掛城、豊明市の曹源寺(知多四国 一番札所)此のあたりは、桶狭間の戦いの戦場の真っ只中であり、そこに住んでいた武士も農民、寺院も大変な思いをしたものと思はれます。 |