草薙の剣と知多法海寺の伝承
 
 
 以前より、知多市八幡の「オヤクシサン」と呼ばれ親しまれている薬王山法海寺略縁起に奇妙な話が書かれていた事が気になっていました。天智、天武天皇の御代にあの草薙の剣を盗みだした新羅の法師がいて、失敗し囚われ幽閉された。天智7年(668年)僧道行は、この地で持念修法し、霊感を得、薬師祈願により、度々、帝の御不例を平癒したため、その功により勅願と寺領を賜った。以降淳和天皇に至る十三代の勅願寺として、内外十二院を有する壮大な寺院になったと。草薙の剣が帰ってきて、熱田神宮では、これを歓び、酔笑人(えようど)神事 (おほほ祭)となって現在も、境内の明かりを消して、夜に行事が行われているようです。草薙の剣が帰ってきて、熱田神宮では、これを歓び、酔笑人(えようど)神事 (おほほ祭)となって現在も、境内の明かりを消して、夜に行事が行われているようです。
そもそも、皇室の三種の神器の一つ、草薙の剣を、盗むとは、これ天下の大罪で、何故、囚われ幽閉ですんだのか?
この僧、道行は、新羅の皇子であって、幽閉中に改心し、修行を重ね霊感を会得し、天皇家のため祈り、帝の体調不良を平癒させたため、この地に帝より、勅願寺を賜った。ずいぶん、奇妙な、不思議な話だと思いました。この疑問に、回答が得られるか!!知多市中央図書館開館30周年記念企画 知多の歴史講座「草薙の剣と知多法海寺」を聴きに行きました。あらためて、現地,、薬王山法海寺にお参りに行ってきました。
 法海寺仁王門 切妻造、本瓦葺、八脚門で、正面東西に仁王像が祀られています。寛永六年(1666年)頃、に造営されたようです。建設後、土台部分の柱の腐食が進み、度々、切断するなどの修理がなされt来たため、平成21年の解体修理の際、元の高さに修復されました。
法海寺仁王門 修復跡が残る柱
法海寺本堂 参道両脇に大楠の並木が続きます。 
本堂より山門を望む  天智年間の三重搭の心礎石 
 天智天皇の御代の開創、新羅の皇太子 沙門道行による勅願寺の開設と云う寺伝はともかくとして、昭和32年頃より、地元の郷土史家、郷土クラブの学生達の地道な発掘調査が続けられ、さらに、昭和48年、法海寺境内に八幡福祉会館が建設されることとなり、本格的な発掘調査が行われ、白鳳時代の重弧文軒平瓦をはじめ、奈良、平安前期の古瓦、土器が多数土したそうです法海界寺所蔵の数多くの仏像、中世仏画が愛知県、知多市の文化財として指定を受けました。平成4年に本堂が修復再建されました。
法界寺は、少なくとも藤原京が出来ていた頃にはすでにここに建立されていた古刹であるわけです。
慶長5年(1600年)、鳥羽水軍の将、九鬼嘉隆の攻撃により、全山ことごとく全焼するという災禍にみまわれます。
しかし、復興は早く、慶長年間の銘を記された資料も多く、慶長〜寛文にいたる近世初期に、現在の伽藍の多くが再建されたようです。 
 福岡 猛志先生講演を聴いて!!
 資料が、古文、漢文のため、講演内容 素人の理解の限界を超えている感がしますが、思い切って感想をまとめてみました。以下の記述は、私の推測を含めた記述てす.
「日本書紀」で、草薙の剣と、沙門道行なる者による盗難に関わる不思議な記述が、二箇所あります 
 @天智七年是歳条、
 是歳、沙門道行、盗草薙劔、逃向新羅。而中路風雨、荒迷而歸
 A朱鳥元年六月戊寅条
 戊寅、卜天皇病、祟草薙劔。即日、送置于尾張国熱田社
 @、とAを記述を文字どうり、解釈すれば
 @ 天智7年(668年)に、僧・道行が草薙の剣を盗み、新羅に持ち去ろうとした。しかし、船が嵐で難破し失敗して帰る。
 何処から,何のために、盗んだのか?失敗して何処に帰ったのか?そのご、草薙の剣は何処にいってしまつたのか?
 A 朱鳥元年(688年)6月に天武天皇が病に倒れると、これは草薙の剣の祟りだという事で、熱田神宮に送り置かれた。
 皇室の、神器が天皇に祟るとは、どういう事か? この時には、草薙の剣は宮中に有ったのか
 この「日本書記」の二行の文節が、
『尾張名所図会』  『薬王山法海寺儀軌』  『尾張国熱田太神宮縁起』  等では随所に加筆され、其々の解釈がなされ、物語が体系化されていったようです。
 「尾張名所図会」では
天智天皇の体調不調の際、勅詔によって、沙門道行を、奈良春日明神へ祈誓させると、、春日明神自ら、法海童子と称して、霊木を以って薬師の尊像を彫刻し、道行に授けると、光明を放ち霊感あらたかな薬師像となり、天智天皇が平癒された。これを道行持ち帰り、この薬師像を本尊とし、當寺を草創する。勅使を以って山號、寺號の勅額を下し、薬王山法海寺が誕生した。天智七年以降、この地を寺本の庄と號する。
『薬王山法海寺儀軌』 
沙門道行は、新羅の国の明信王の太子であつて、「当時、日本と新羅は対立した関係で、三種神器の一つを盗みだせば、少なからず日本国に影響を与えるのことが出来るはず」と!!!、推読しましたが、『草薙の剣持ち出しに失敗し多美州(尾張の古名)星崎の浦の土牢に幽閉され、帰国を断念して当地に道宇を営んで修行重ねていたという。その後、天智天皇が、体調不良になったとき、當山御本尊に祈願された結果ただちに効果あり、「薬王山法海寺」と勅額とともに、寺田280町を賜ったと言い伝えられている』ようです。
 知多市八幡 法海寺遺跡知多市文化財報告15集 法海寺の由来参照   
『尾張国熱田太神宮縁起』 
天智7年、新羅の僧道行 神剣を熱田神宮より盗み、本国に持ち帰ろうとした!!何度も、新羅に持ち帰ろうと努力するが、失敗。とうとう、最後には、神剣が身から離れなくなり、道行術尽力窮、拝手自首、遂当斬刑 とあるから、自首し、死刑が確定したのかな!!
天武元年(688年)、卜天皇御病、草薙剣為祟、即勅有司、奉還于尾張国熱田社 遂に帰ってきた。『これからは、私(草薙の剣)が、皇室をお守りするであろうと!!』 
「この『尾張国熱田太神宮縁起』で注目したいのは、建稲種命は、尾張の祖 宮酢姫の兄と書かれていることであり、」日本武尊が宮酢姫と結婚し、草薙の剣に預けて、伊吹地方に出征し亡くなったとされているが、宮簀媛命は、預けられた草薙の剣を熱田の森に手厚く、奉斎鎮守されたとある.。尾張の国と、大和の中央とが密接に繋がっていつた重要な証と考えられる。相殿には、大和の神々(天照大神、素盞鳴尊(すさのおのみこと)日本武尊と、尾張の神々(宮簀媛命、建稲種命)が同じ熱田の森の中で、祀られていることになります。祭神は、熱田の大神、草薙の剣を御神体としていますが。(簀媛命)を元宮として、名古屋市熱田区大高町火上山に熱田神宮摂社氷上姉子神社として尾張氏の祖神として広く崇敬と信仰あつめて現在も古社として鎮座しています。  「熱田神宮摂社 氷上姉御神社の栞」参照
沙門道行は、新羅系の渡来人で、実際に、積極的に活動していた僧侶集団の一人であつたのでは!!
「天智、天武天皇の時代、海岸線は、現在の地形とは、大きく異なっていて、熱田神宮から知多半島の北部一帯 鳴海、大高、笠寺一帯は、アユチ潟といった入江が大きく入り込んでいました。この一帯に新羅系の渡来人が多数きていてたのは、事実のようです。この有力な新羅人集団の中に、精力的に活動した複数の僧侶がいたとしても不思議ではなく、むしろ、渡来系の仏教的基盤が、この尾張南部に以前よりあったと考えるのは妥当な考えではなかろうか。百済系渡来人も含めて。
かの、沙門道行もこうした渡来新羅人の一人で、尾張南部で実際活躍していた実在の僧の一人ではなかろか!!
名前が、唯一記録されていた僧で在ったため、法海寺の開創に実際に関わった新羅の渡来僧として登場してきたと考えるのは無理があるのだろうか!!熱田神社から,草薙の剣を盗んだかは、別として。」
しかし、寺伝に云う朝廷の勅願寺に指定され、寺領を賜った経緯が、今ひとつスッキリしないが!! 
下記のような興味のある見解を述べられたと記憶しております 
 「壬申の乱(672年)後、大海人の皇子(天武天皇)の最も神聖な剣として、草薙の剣(斬蛇剣)が考えられます。このころ、各地の従属した地方の豪族からの数多くの太刀が大和法廷へ献上されていたのではないか!!尾張氏もしかり。壬申の乱時、大海人の皇子と尾張、美濃の繋がりは非常に強いものとなっていた。日本武尊の所縁の草薙の剣もこの時、大海人の皇子に献上させられていたのでは!!本来在るべき場所、熱田神宮に返さないので祟るのか!!それだけでは弱い。むしろ、『(草薙の剣が、近江朝大友皇子殺傷に関わったとし、大友の皇子が天武天皇にた祟ったものとする)風潮を流す、仕掛け人が必要となる。熱田に返す理由に重みが出来る。その人物が、壬申の乱の功労者でありながら、朝廷の待遇に不満を持っていた尾張大隅である』と云う説もあると紹介されておられた。
 さらに『朱鳥元年6月10日の熱田社への送置の前提を創るため新羅僧の罪科の話を、一時宮中に置かれてあつた事由を読者に暗示するような形で書類編纂の際に創作したという可能性は否定できない』との説も紹介されておられます。」
私は、この「書類編纂の際に創作した」という説、大いに信憑性があると感じました。この日本書紀の2つの文節は、尾張氏の強い要望 熱田社にご神体 草薙の剣 を返してもらう事。この意を酌んだ書類編纂時の創作であったと。日本武尊の東征物語、草薙の剣に関する諸説に関しても、いろいろ見解を述べられていましたが、今回、ここまでが限界でした。
ただ、「日本武尊、草薙の剣の物語が確立したのは、神代の話ではなく、比較的新しい時代、天智、天武天皇の時代 尾張氏の勢力が確立された時代であったのではなかろうか」という見解には、大変、興味深く聴講しました。
 
 とにかく、今回、知多市の八幡のオヤクシサン 法海寺さんが白鳳、藤原京よりの神代の話と結びつく、古代史のロマン溢れる古刹である事を知り驚きました。
   
 古絵図によれば 南北八十二間のほぼ、方形の大伽藍が見えてくる。三間堀を廻らし、その外に六つの坊で配置している。伽藍実測図も南北約八十間とほぼ一致する。ただ、現在の仁王門と本堂を結ぶ伽藍の中心線は、実際はもう少し西にずれていたようです。創建当時の規模確定するには至っていないようです
参考資料 法海寺各種案内版 講演会配布資料  法海寺遺跡知多市文化財報告集
 伝説に歴史を読む (春日井シンポジュウム)大功社