NHKの大河ドラマの「お江」は、既に、佐治一成と大野城はなれ、ここ知多半島を通り過ぎて行きましたが、地元では、いまままで、大野歴史民俗資料館、知多市歴史民俗博物館、知多市中央図書館で、地元の学芸員、郷土歴史研究者、歴史作家の皆さんによる、ふるさと歴史・文化講座が精力的に開かれており、毎回、定員を越す受講者で、今でも盛り上がっています。今年になって、戦国、江戸初期の出来ごとをテーマにした講座が下記のように、私が受講した講座だけでも五回開かれていました。
 @ 大草城から名古屋城の築城へ 普請奉行 村田権右衛門の出自と軌跡   
 講師  千賀 哲氏
 A 江 波乱の生涯       其の1、其のU                    
 講師  吉田 弘氏
 B お江(小江・江与・崇源院)と織田有楽斎長益                   
 講師  早河 佳宏氏
 C 「江」と尾張・美濃 (佐治氏と信長・秀吉・家康)                  
 講師  桐野 作人氏
 D 於大の方の母性愛                                   
 講師 清水 香都江氏
NHKの大河ドラマの影響の大きさに今更ながら、びっくりしています。
1年前には、大野の宮山の山頂に佐治氏の城があったことは、知っていましたが、戦国の世に一時、ここ大野城が歴史の表舞台にあったとは知りませんでした。織田信長、羽柴秀吉、徳川家康、織田有楽斎、そして浅井の三姉妹 茶々、お初、お江と歴史上のスーパースターがキラ星の如く登場してきました。また、この為に、翻弄された地元の小大名、豪族が数多く出た事を知りました。水野氏、荒尾氏、花井氏、戸田氏、岡田氏等々。今回、これらの講座を受講し、佐治一族とお江の顛末には、諸説入り乱れ、いまだ確定的な段階に至っていない事を知りました。先日、地元紙にこんな記事が掲載されていました。
 
伊奈波神社とは、信長の居城岐阜城の金華山の山裾にある由緒ある神社で、毎年、初詣、七五三詣でに大変な繁いを見せます。
大河ドラマを機に、神社に残る過去の文献を、禰宜代行が読み返し、江戸時代に著された地誌「岐阜志略」に、『市は長政の自決後、身重のまま岐阜に逃れ、女子を出産した。女子はその後崇源院』と云う趣旨の記述があったそうです。
また、戦前にまとめられた「伊奈波神社略史」には、お江は、同神社を産土神(うぶすながみ)として尊敬し、江の五女(後水尾天皇中宮 和子)も信仰したと記されていたそうです。桐野作人氏の講演にも、江戸中期の作とされる「安土創業記」(蓬左文庫所蔵)に、『浅井長政ヵ娘二人其母(信長妹)是ヲ相具シテ小谷ヲ出テ岐阜ニ赴ク、此ノ時浅井長政室懐妊岐阜ヘ帰リ女子ヲ産此娘後ニ秀忠ノ御臺所トナル・・』とお江岐阜出生説の紹介がありました。大河ドラマでは、小谷城落城のさなか、出産、誕生したようですが。戦国期の女性の記述は、誕生日はもちろん、名前もなく、ただ、・・の女とされていたケースが多く、秀忠の室であった「お江」ゆえ、誕生地に関する諸説がいろいろ取りざたされたものと思はれるます 。今回の、大河ドラマをきっかけに、地元のふるさと歴史講座では、佐治一成とお江の結婚、大野湊脱出の経緯についても、諸説いろいろの見解が述べられています。
 
大河ドラマ「お江」での物語の展開に対し、地元の郷土史家、研究者の間では、多少力点が違うが、異を唱えています。大きな流れとして 井上 靖の昭和32年年12月刊「小説新潮」5月号で発表した小説「佐治与九郎覚え書」で物語れている考え方。(参考としたとされる資料は、佐野重蔵「大野町史」(昭和4年12月刊)とされています。)簡単に要約すれば、お「江」は、秀吉の意向で、佐治一成に嫁ぎ、一成が小牧長久手の戦いに、佐屋の渡しで撤退する家康に乗船する船を用意し、家康を無事彼岸に渡らせた事は、許し難い事で、まずは、お江に、淀君が病気見舞いと称して、大阪によび戻した。しかる後に、二人を離縁させた。一成は伊勢の織田信包のもとに落ちのびた。今回のNHKの大河ドラマは概ねこのパターンか。佐野重蔵の「大野町史」説に反する新設が、地元では非常に信憑性が高いと評価されている郷土史家瀧田英二著「常滑史話牽隠」が発表され、「大野佐治考」「与九郎」「大野退却の真相」が語られています。
「天正一二年(1584)織田信雄による自らの重臣岡田長門守重孝をはじめ三家老を秀吉内通の疑いで殺害したことにより、秀吉対信雄・家康の小牧・長久手の戦いが勃発。三月一八日、岡田重孝の居城星崎城、常滑城(城主不明)を緒川、刈谷の水野忠重、勝成親子により攻略開城。佐治一成も岡田重孝に一味し通じていたとされ、或いは、伊勢の秀吉方の織田信包と誼を持ったため、信雄・家康方の戸田忠次・清水権之助に大野城の進駐を許してしまった。お江が秀吉の養女であった事が、裏目に出たとも考えられると。
落城直前に、佐治一成、お江は、伊勢安濃津城主の織田信包のもとへ逃れたと考えるのが自然に思はれる。諸田玲子「美女いくさ」に語られているように、一成より先に、お江は戦火の中の大野城から脱出し、大瓶を運ぶ船に隠れ海を渡り伊勢の信包のもとに落ちのびたのかもしれない。秀吉にとっては、もはや、二人の結婚が何等、政治的意味を持たなくなったこの瞬間、二人は離縁させられた可能性が高い。天正十二年八月 秀吉、お茶々、お初が新築の大阪城に移り住む。この直後、に離縁となったものと思はれる。
直後、「常滑史話牽隠」でさえ見落とされた事であるとして、早川佳宏氏は 『織田有楽斎が宮間(大野)城主になっていた事実があると。「尾張雑誌」に<大野城址>織田源吾居也と云う。小倉村<蓮台寺>の項目に「佐治家衰微の後、織田有楽当郡を領す。」「寛文村々覚え書」に<大野之庄宮山村>の項目に「古城 東西十五間南北三十六間 先年佐治   ・・・同与九郎居城之由。但織田源五郎殿これに代る由。』 等の資料の紹介が有りました。織田有楽斎の動向に注目する必要があると。天正十三年(1585年)の、戦国期に於いても信憑性が高いとして有名な「織田信雄分限帳」には、源吾殿(織田有楽斎) 一万三千貫文と有り、佐治一成の記載は有りません。千賀哲郎氏も有楽斎は、既に、天正二年(1574年)信忠の尾張支配下時、知多を実質領有支配していたと指摘しています。織田信雄・徳川家康連合軍は、大野湊に(戸田、千賀、小浜、間宮、そして大野衆)による水軍を集結させ、伊勢の秀吉方の九鬼嘉隆に対抗させた。此の時の水軍の指揮官が織田有楽斎であったようです。(千賀哲郎氏 佐治与九郎一成とお江の歴史年表より。)柳英婦女子伝系、佐治幾衛家譜等複数の資料に佐屋の渡しの1件は確かに記述されています。小牧・長久手の合戦で、大野城、蟹江城をめぐる大きな船合戦が、確かにありました。
実は、大野城は尾張に、もう1ヶ所ありました。(愛知県愛西市大野町郷前218)
 日光川の西側の湿地と田畑の真っ只中に石碑のみ立ており、遺構らしきものはなにも有りません。

佐治与九郎一成

崇源院像(お江)

一成の母 於犬の方
 現在の愛西市佐屋町大野に星崎城を本城とする大野城があり、同時期並行して行われた蟹江城の合戦とともに、小牧・長久手の合戦の最大の船合戦が行われ、両軍の水軍による伊勢湾の制海権確保を巡る総力戦となりました。佐屋の大野城城主山口重政は、滝川・秀吉方の前田与十郎に奇襲されされるもよく持ち応え佐屋川(日光川)、蟹江川を巡る攻防戦の勝利に大いに貢献し、のちに、家康より大きな評価を受け大名に摂りたてられます。佐屋の大野城の攻城戦に登場する佐屋の渡しの1件は、日光川(旧佐屋川)での話であり、知多の大野城の佐治一成の作戦行動ではけっしてあり得ない。信雄・家康方の水軍には、当然、戸田、千賀、間宮に大野衆と称する水軍を加えて織田有楽斎指揮のもと、秀吉方の九鬼嘉隆、滝川一益の水軍と激しい船合戦を中心とする合戦が行われました。結果は信雄・家康方の大勝利で終り、秀吉の信雄と家康分断作戦は、またも失敗します。此の2つの大野城が有った事が、後に記述された編纂書が混同していった所以と思われるます。とくに、江戸昌平黌で編纂された資料の多くに、総じて現地探訪せず、佐屋の大野城と知多郡の大野城と混同している見解が散見されているようです。
お江の生涯について、いろいろな見解が述べられ話題は尽きない。此のお江(崇源院)の像についても、夫秀忠より早く亡くなっているのに、尼僧姿はあり得ない。夫在命中に髪をおろす習慣は当時はなかった。此の尼僧像は別人であると。お江の子女数についても、諸説が古来より囁かれています。豊臣秀勝の間に一人(完子)徳川秀忠との間に、二男、五女 計8人
長女せん(千姫)、四女はつ(初姫)、次男国松(忠長)以外は、お江から生まれてはいない。竹千代(家光)も五女(和子)もお江の産んだ子供ではないと云う説があると聞く。これはある意味センセーショナルことであります。三代将軍家光、後水尾天皇の中宮和子もお江が産んだ子供ではないと云うことですから。知多大野に残る伝承では、佐治一成との間に、二人の娘(おきた、おぬい)が居たことになっています。さすがに、この伝承は、信憑性は薄いとされています。さらに、お江は毒殺されたと
まだまだ、各地に残る伝承を調べれば無数残っているようです。戦国の世を駆け抜けたお江は、確かに波乱万丈な一生だった事が感じ取れ、ますます、関心が強くなりました。
<参考文献> 佐屋町史 「常滑史話牽隠」 ふるさと歴史・文化講座講演会各種資料